日々垂れ流し。
by pyababy
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意識と無意識

感覚は意識というフィルターを通しているという話を読んでいます。要するに、本来なら感じていることでも、思ったことしか意識としては感じないといった感じでしょうか。

目が見えなかった人が網膜移植を受けて目が見えるようになったときには、初めはぼんやりとしか世界が見えなくて、やがて世界に絶望していったとも書いていました。

目が見えない中での世界はきっと美化されていたもので、思っていた世界と現実に見える世界とのギャップにとまどったようです。

ですが、この逆の話も聞いたりします。
目が見えなかった人が桜を見て感動する話でしょうか。
まあこれの真偽はわからんのですが、ありえそうだと思ったわけです。

まあ結局のところ、僕らの脳は情報処理の能力としてというか、僕らが意識できる情報処理能力としては、感覚として認識できる情報の1万分の一程度なので、なかなか無駄が多いというか、もったいないことをしているなと感じます。

ですが逆をいえば、少ない情報処理で済むように情報の純化が行われているわけです。

ほぼ僕が無意識で行うタイピングも、細かく意識していけば、指をこの位置に持ってきて何度曲げて何センチ下に落とすという行為に分けられますし、むしろ筋肉をどう使うか、どうやってそこに栄養を持って行くかなんて部分まで考えなければいけません。

でもそれを考えずに出来るということは、そこの部分を無意識で行えるようにしているわけで、その部分において情報が純化されていき、必要な情報のみを取り出して、僕らは意識のもとで操作できているようです。

その辺をうまく使ったのがパソコンという話を見て、妙に納得しました。

パソコンの中身は0と1だけですが、僕らに見やすいようにわざわざ画面に表示して、ソフトという仕組みを使うことで僕らに0と1を意識させないようにしています。

つまり本当に大事なところは意識させないようにして、操作上大事な部分だけを意識させたものがパソコンといえましょう。

人もこれと同じで、操作に必要な部分のみの意識で生きれるようになってるわけです。

ですが僕はあえて、無意識領域を増やしたいのです。

(意識として)考える前に動ける場面を増やしたいのです。

条件反射に近いものなのですが、それが増えていくことによって意識的に考える部分が減っていき、今まで考えていた部分を考えなくて済むようになるため、新しいものを常に考えていけるようになるからです。

それならお前の本体はどこにあんねんって感じになりそうですが、無意識だろうが意識だろうが、結果は同じだと僕は思っています。

ここからは完全に僕の妄想なんだけど、超能力って案外そんなところなのかなと。
透けて見える目とか持ってる人って、実は僕らが感覚としては感じていても、意識として見ていない部分を何故か見えるだけ何じゃないのかなと。

脳の作りって結構すごいから、案外なんでも出来そう。
光を感じるからこの景色が見えているだけで、光以外を目で捉えられたとするなら、そんな世界が見えていたとしても不思議じゃないからな。そして光を感じている僕らには、彼らが見る世界を意識的には見れないから、研究結果としてわかっていなくても不思議じゃないし。

そんな妄想は好きなのでずっとしていたいのですがそうもいきません。

結局色々な勉強であったり運動であったりってのは、意識をどこまで無意識に近づけることができるかだと僕は思っています。

意識の上でやることは無意識より時間がかかりますから。
それをほぼノータイムで出来る無意識の方が明らかに良いわけで。

まあ僕は意識がダメとかじゃなくて、無意識領域を増やしたいというだけですけど。

こうやって無駄に意識を残してるあたりが、人間らしいからいいんですよもう。
多分僕らが全て無意識で動けたなら、ほんとにすごく合理的でいい社会が生まれていたような気もしますし、むしろ子作りだけしてるような気がします。
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by pyababy | 2008-02-03 00:01 | 日常
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