日々垂れ流し。
by pyababy
カテゴリ
全体
日常

転職
未分類
以前の記事
2016年 01月
2015年 12月
2015年 04月
2014年 10月
2014年 04月
2013年 12月
2013年 04月
2012年 12月
2012年 01月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2009年 07月 ( 19 )   > この月の画像一覧

きつねのはなし。

きつねのはなし (新潮文庫)

森見 登見彦 / 新潮社



普段は妄想の大家である森見氏であるが、怪談噺を書かせても一級品であった。
圧倒的な文章力と、周到に張り巡らされた伏線が生み出す独特の薄気味悪い世界は、僕を噺の中に一気に引きずり込み、そしてその穴からなかなか抜け出すことをできなくさせた。怪談の類や妖怪ものは、僕自身が京極夏彦好きであるがゆえに好んで読むのだが、それらと比較してもななら遜色のない怪談であった。読了後には背中に涼しさを覚え、にもかかわらず、結末を導く伏線を確認するために読み返してしまった。二回目を読んでもよくわからない部分があり、そのことが噺の不気味さを増長させていった。

薄気味悪い噺ではあるものの、その中には、京都という懐かしい町並みを想起させるような美しい言葉が溢れ、読んでいる僕を古都京都へといざなった。また、不気味な噺でありながらも、登場するキャラクターには彼の他の作品と同様に森見氏らしさが溢れており、ただ単に恐ろしいだけの噺ではないのは彼ならではの文章であると思う。遊び心のある怪談といった具合だろうか。しかしその独特のキャラクター自体がふわふわとした印象を読者に与え、怖さではなく不気味さという部分をより強固にしているように思えた。

この本には4編の中編が収録されているのだが、それらが微妙にリンクしているのも読みどころであろう。しかしそれらが本当に同じ人物や、同じ店などを表しているのかは謎に包まれている。とはいうものの、それらの絶妙な絡まり合いが、一冊の本としてのまとまりを生み、中編集としても、一冊の単行本としても楽しめるといった作品に仕上がっていた。
[PR]
by pyababy | 2009-07-31 01:46 |

変わる人と変わらない僕。

小学校時代の同級生と飲んできた。
たまに同窓会をしているので、一年半ぶりくらいだけど。

彼らと飲んでいると、小学校のころと変わらない部分と、変わった部分があると感じる。
「その人らしさ」とも捉えることが出来るその部分は、さして変わっていないように感じる。
いつ会っても、「あいつだ!」という認識が変わることはない。

だけれども、上辺の言葉に表れる人間性は、全然変わっている。
話す言葉であったり、内容であったり、考え方であったり。

多分この辺は、その人が作るものではなくて、周りが作るものだと思う。
どのような人間と付き合ってきて、何を感じてきたか。
それが違うから、あの頃と変わった部分を強く感じるのかもしれない。

久々に会うと楽しいのだが、雰囲気的な部分で違和感を感じてしまった。
彼らが(もしくは僕が)遠い人間になってしまったような感覚をもった。

でもよくよく考えてみると、小学校の時にそこまで仲良くなかったような、
そんなに遊んでなかった記憶があるメンバーだったので、
実際はそんなこともなかったのかもしれない。

僕はほとんどの人から、何も変わっていないと言われる。
見た目もそうだし、性格も、行動も変わっていないと。

それは成長していないという意味ではないと信じたいのだが、
少しくらい何かの変化を感じて欲しいなと思ったりする。

とはいえ彼らは変化のない僕を見て安心するらしいのだが。
そんなことをいう僕も、友人の変わらない姿を見て安心したりする。

多分人って、変わらないし、変わらないことを求めてるんだと思う。
いつまで経ってもあの頃のままでいたいという思いが、
どの人間にも存在しているのかなと思った。
[PR]
by pyababy | 2009-07-29 01:43 | 日常

人を裁くときに、読む本。

裁判員の教科書

橋爪大三郎 / ミネルヴァ書房



学者の書いた裁判員制度の本は腐るほど読んできた。
正直なところ、どの本も一般市民向けに書かれているとは思えない内容だった。
もしくは、簡単すぎて読むに値しない内容だった。

この本は、法律学者ではない学者が、
裁判員制度に参加するに辺り必要な知識、考え方などを記した本である。

それゆえに、法律学者ならば気にしないような部分に触れられていたり、
法律を知らない人間が読んでもわかりやすいようにできていた。

何よりも僕が素晴らしいと思ったことは、
刑事手続の一番大切な部分を、法律学の本よりもわかりやすく記していた点である。

「刑事裁判で裁かれるのは、検察官である」
これはこの本の一文である。
一見おかしいように見えるが、ぜんぜんそんなことはない。
むしろ的を射すぎている。

少し解説する。

普通に考えれば、刑事裁判で裁かれるのは被告人である。
しかし、刑事裁判というものは、被告人が犯人か否かを判断する場所ではなく、
検察官の主張が完璧に正しいか、そうでないかを判断する場所なのである。

その前提にあるのが「被告人は犯人ではない」という考え方である。

日本に生きていると、警察に捕まった人=犯人といった認識を持ちやすいが、
その認識は完全に間違いである。

そもそも犯人かどうかわからないから捕まって、裁判にかけられるのである。
そして裁判の場において、犯人か否かを判断するのである。
それゆえに、被告人はあくまで、(裁判の段階では)無罪の人間なのである。

その人間を、検察官は犯人へと仕立て上げようとする。
そのために、検察官は様々な証拠を使って犯人であることを立証していくのである。
だからこそ、裁判官がみるべきは、被告人ではなく検察官の主張ということになる。

それゆえに、裁かれるのは検察官、という言葉は的を射ているのである。
(わかりにくい解説になって申し訳ないorz)

今の話の流れには、「無罪推定の原則」などがさらりと含まれている。
その辺のわかりにくい概念についても、口語訳されていた。

これらの法律用語の口語訳は、法律学者では出来なかったと思う。
一般市民により近い人間である著者だからこそ、出来たことだと思う。

裁判員制度に興味がある人間、刑事手続を学ぼうとしている人間、
そんな人たちは読むに値する本だと思う。

僕が読んだ裁判員制度関係の本では、段違いによい本だった。
[PR]
by pyababy | 2009-07-27 03:30 |

神の沈黙

沈黙 (新潮文庫)

遠藤 周作 / 新潮社



神に祈る行為が、人を救う行為と直結することはまず無いだろう。
それでも僕らは、何かを求めて神に祈るときがある。
だけれども普通は、神は僕らの祈りには答えてくれない。

その「神の沈黙」というものをテーマにした小説が「沈黙」である。

テーマも重いのだが、文章の構成も素晴らしいものがあった。

まずは、客観的視点から主人公達の置かれる状況が述べられる。
続いて、手紙という形の主観での状況が綴られる。
最後は、第三者視点での語りによって、話が進むようになる。

これらの構成が上手くかみ合い、テーマをより強く表現している。

主人公はキリシタン禁制の激しい日本に潜入した、ポルトガル司祭のロドリゴ。
彼は、キリスト教を日本に広めるという「役目」をもって日本に潜入した。

布教を進めるも、やがて政府側の人間に見つかり、捕まってしまう。
そこで拷問にかけられ、棄教するか否かの選択を迫られる。

このあたりの心理描写、情景描写が鳥肌ものだった。
読んでいるこちらの心が痛くなった。

僕は無宗教ゆえに、信仰深い人の気持ちはよくわからない。
何故そこまでして自分の神を守りたいのかもよくわからない。

だけれども1つわかるものがあるとすれば、
それは大切なものを守りたいという気持ちである。
その大切なものが、人によっては「キリスト」だったのだろう。
そのもののために、命を張れた人間の心の強さに、少しの憧れをもった。
[PR]
by pyababy | 2009-07-27 02:19 |

世の中には後悔ばかり。

何で高校時代に真面目に勉強しなかったのか。
遊んでばっかりいたのか。

そして逆に、大学時代に何故勉強ばかりしていたのか。
何故遊ばなかったのか。

その辺の後悔が最近大きい。

大学生活というものがあと8ヶ月程度になり、
所謂自由に過ごせるという噂の時間が残り少なくなってきた。
そのことがそれらの後悔を加速させているのかもしれない。

ちょっと最近思う自分についてのことを書く。

僕は口と行動が一致しない人間なのだと思う。
正確に言えば、他者から見た時は一致していない人間だと思う。

このように書けば、口だけの人間に思われかねないが、そのようなわけではない。

僕は基本的に、「楽に生きたい」といった旨の発言をしている。
そして、出来ることならば「何もせずにニートのように生きたい」とも。
言葉ではそのようなことを発し、出来ればそのように生きたいとも思っている。

しかし僕が取る行動は、それとは真逆である。
あえて自分を厳しい方向に追い込み、そしてそれを楽しんでいる自分がいる。

就職が決まり、普通の人間ならば遊びほうけたい時期であるにもかかわらず、
新しい分野の勉強を始め、相変わらずの勉強生活である。

就職先も、楽に生きたいなどといいながら、
楽に働ける会社ではなく、超絶激務な会社を選んでいた。

多分自分の本質は、「常に何かをしていたい」人間なのだと思う。
だけれども僕の心は、「働くだけの人間」に価値を見いだせていない。
それゆえに、自己否定に繋がる「働くことへの賞賛」を出来ないのだろう。
だからこそ、僕の口からは「楽に生きたい」という言葉がでるのかもしれない。
[PR]
by pyababy | 2009-07-26 02:15 | 日常

働く、ということ。

ワーキングプア―日本を蝕む病

ポプラ社


ワーキングプア 解決への道

ポプラ社



僕が働くことになるであろう会社の初任給は、だいたい20万強。
額面だと一年目で年収300万程度になる。
週休2日で、福利厚生もそれなりに充実している。

ある程度の大学に通う人間からすると、上記が普通のことのように思える。
初任給が10万円台だと、安く感じてしまう。

それがどれだけ恵まれているかという事実に、僕らはなかなか気付けない。
それが普通であって、自分の知る唯一の世界だから。

でも世の中には、365日働いて、月収10万の人もいる。
住宅補助など存在せず、社会保険にすら入ることが出来ない人がいる。
必死に働いても、食べていくことすら出来ない人がいる。
それ以前に、働くことすら出来ない人がいる。

その人達のことを、もっと知るべきだと思った。
そして彼らの分も必死になって働くことが、僕の責任だと思うから。

生きていくために必要な分を稼げない人がいる。
もちろんこの中には、自己責任としか言いようがない人もいる。
だけれども、自分ではどうしようもないことによって、
そのような生活を強いられている人間がいるのも事実である。

今の日本は、弱者にとっての最高の国とは言い難い。
親がどのような人間であるかによって、子の人生が決まると言っても過言ではない。
裕福な家庭は子供に最高の教育を施すことができ、
結果として子供もそれなりの道を歩むことが出来る。

しかし、お金がない家庭の子供はそのようなわけにはいかない。
学校に行かせたくても、行かすことが出来ない。
子供にとっての選択肢がほとんどない。
大学など夢のまた夢。
その子供は、いい就職先が見つからず、貧困のループを生む。

その事実を僕はほとんど知らずに育った。

その理由を考えたときに出てきた答えは、住む世界が違うということだった。
これは別に僕が選民だとかそんなことを言いたいわけではない。

ただ単純に、住む世界が違うという事実である。
地域的なこともあるし、生活環境といったこともあげられる。

僕の住む地域は関西圏であるため、
日本においてはそれなりに裕福な地域である。
それゆえに、ワーキングプアといったものに触れあう機会はほとんど無い。

また、僕が普段行くような店や場所は、
彼らにとっては高級な部類に値する。
マクドナルドや、ファミレスが、である。

地域や環境が違うために、会うことがない。
それゆえに、僕らはその現実に気付けない。

学ぶことが当たり前で、食べることが当たり前の僕らには、
彼らの世界を知ることが出来ない。

派遣先へ向かうバスを待つ集団のことなど、気にも留めない。
ましてやその彼らがどのように生きているかなんて、興味すら湧かない。

でも、それでいいのだろうか。
本を読みながら、ずっと考えていた。
もっと彼らの話を僕らは聞くべきではないのだろうか。
人ごととして考えるのではなくて、自分の問題として捉えるべきじゃないのだろうか。
そう思ったときに、自分が行うことになるであろう仕事についても考える必要がでてきた。

僕が行うはずの仕事は、より効率的なシステムを作る仕事である。
裏を返せば、人の手がいらない世の中を創ることに貢献していくことである。

すなわち、彼らの仕事を奪うのが、僕の仕事である。
僕が幸せになることで、多分誰かの仕事が無くなっていく。
新しい雇用の創出に繋がることは、多分無いだろう。

その仕事を行うことに、少し抵抗がでてきた。
それと同時に、新しい可能性も見えてきた。

僕がやるべきことは、新しい雇用も創出しつつ、
世の中を効率化していくことなのかもしれない。
多分そんなことがこれからは求められていると思う。

僕が何かを行ったからといって、変わる世界じゃない。
それだからといって何もしないという選択をとるわけにはいかない。

考える頭を持ち、動ける身体を持ち、
そして何よりも、選択できる状況で育ったこと。
その者の責任は果たしたいと強く思った。
[PR]
by pyababy | 2009-07-18 03:03 |

学生と社会人の違い。

思考の整理学 (ちくま文庫)

外山 滋比古 / 筑摩書房



過去に二冊ほど外山氏の本を読んだが、内容的にはどれも同じだった。
扱うテーマが近いからしょうがないとはいえ、ちょっと退屈だった。
しかし多分、思考関係の話はその辺りことしか書くことがないのだろう。

グライダー人間と飛行機人間の話が中心になっている。
簡単にいえば、人から教えられたことをするだけの人間か、
自ら頭を使って考える人間かといった話である。

学校教育で行われることは前者であるにも関わらず、
社会に出て求められることは後者であるといったことに苦言を呈している。

考える力が求められています!!
なんてことを最近はよくきくし、就活をしていてもいやという程聞いたが、
そんなことをいう程彼らが考えているのかといえば、
そんなわけでもないのかもといったことを思ってしまっていた。

ビジネスに答えなんて無いんです!
なんてこともいやという程聞いたけど、
そもそも答えがあることなんて限られているわけで、
何を今更いっているんだとずっと感じていた。

答えがあるならみんな億万長者だろうと。

でも多分、答えの有無というものが、学生と社会人の違いなのだと最近は思う。
だけれども、これは本来は高校生と大学生の差だと思う。

中学までは義務教育だから、学ぶ(真似る)ことが中心となる。
高校も今現在はそれの延長だろう。
すなわち、勉強の域を出ない。

しかし大学は、勉強する場ではなく、研究機関である。
すなわち、世の中の誰もがわからなかったことを、わかるようにする場所である。
その場所において、答えのある「勉強」を行うことに違和感を覚える。

なんていうか、効率よく学ぼうとすればするほど、
グライダー型の人間が増えていくのだと思う。

司法試験の勉強も特にそんな風だと感じていた。
問題を考えるにあたっては、公式を覚えるように、学説を覚えることを求められた。
もちろん、誰かの考えをなぞる方が簡単だし、数多くの量をこなすことができるから、
試験に受かるという一点においては有利なのだとは思う。

だけれども、そこでは自分の頭を一切使わない。
覚えるのはただの知識である。
結局その知識は、実社会ではさして使えない。

実社会に出れば飛行機型の人間が求められるのに、
最高峰の試験においてもグライダー型の方が有利というのは、
この日本の学問の在り方がどれだけ腐っているのかを示していると思う。

世の中から求められることは、短期的な結果ばかりである。
僕らはいつ、長期的な成長が出来るのだろうか。
[PR]
by pyababy | 2009-07-18 01:44 |

表意文字で書くこと。

日本語で書くということ

水村美苗 / 筑摩書房



水村氏は、作家より学者としての色が強いのかも知れない。
この本はエッセイというよりは、論文色が強かった。
小説家が書いた日本語についての話という認識で読むよりは、
学者が書いた日本語学といった認識の方が読みやすかった。

しかしながら、本の解釈を述べている部分では、
もとになる本を僕が読んでいないためにほとんど理解することが出来なかった。

この辺は僕の教養のなさが露呈した部分であるため、
日本人として最低限読むべき本くらいは押さえておきたいと強く感じた。

ところで、この本の中で、脱亜について述べられている箇所がある。
この脱亜というものは、「文字」に関しての脱亜である。

すなわち西洋文字であるアルファベットは表音文字であるのに対し、
漢字は表意文字であり、表意文字は劣ったものとして考えられていたため、
表意文字を捨て、表音文字を目指したのである。

具体的には韓国において、漢字を捨て、ハングルが発達した例が挙げられる。
また韓国のみならず、日本も、中国さえも、
表意文字の呪縛から逃れようと試行錯誤を繰り返したのである。
今現在の日本において溢れている「カタカナ語」もそれを示す1つの例だとする。

僕らが当たり前に使っている漢字が、もしかしたら無くなってしまったかもしれない。
そんなことを考えたときに、すごく寂しくなった。

文字で意味が表せることって、僕はすごくクールなことだと思っている。
伝わらない思いまで、文字というものが伝えてくれるから。

西洋を目指していた時代においては、漢字は劣ったものだったのかも知れない。
でも僕にとっては、1つの文字で多くの意味を表すことが出来、
そして形を見るだけでおよその意味を知ることが出来る漢字は、
日本に残された最高の文化の1つだと思う。

この漢字文化圏で育ったことを、誇りに思いたいし、
日本語というものを最後まで大切にしていきたいと強く感じた。
[PR]
by pyababy | 2009-07-18 01:19 |

人をブランディングする。

SAMURAI 佐藤可士和のつくり方

佐藤 悦子 / 誠文堂新光社



佐藤可士和というアートディレクターのマネージャーとして(そして妻として)、
彼をいかにしてブランディングしてきたかといったことが書かれている。

僕は彼の功績などほとんど知らない。
ドコモの端末については、少しだけ聞いたことがあった。
他はもちろん知らなかった。

これが、一般人と、業界人の差である。
その業界のTOPだろうが何だろうが、一般人は知らないのである。

そこをいかにして、一般人にまで浸透させるのか。
その部分を彼女は担当している。

そのためには、仕事の依頼の管理なども徹底して行うらしい。
佐藤可士和というブランドを成立させるために、
役に立つ仕事は受け、そうでない仕事は切る。

そういったことを徹底し、佐藤可士和を創り上げる。

人をブランディングする行為は、すごく面白いと思う。
ものではなく人であるため、行動、発言、全てが対象になる。
それらを管理し、ベストな状態で世の中に示す。
アイドルのプロデューサーとかも同じ感じなのだろう。

その辺の話は面白かったが、
いかんせん佐藤可士和神みたいな書き方なのがちょっとあれだった。
なんたって、僕にとってはただのおじさんなのだから。
[PR]
by pyababy | 2009-07-14 11:15 |

読む、ということ。

日本語で読むということ

水村美苗 / 筑摩書房



日本語が亡びるとき を読もうと思ってたんだけど、
図書館で貸し出し中だったから先にこっちを。

水村美苗の文章は、何故だか苦手だった。
苦手だから逃げるのは嫌いなので、ひとまず最後まで読んでみた。

苦手な理由は、後半にさしかかったあたりで見つかった。
彼女の文章は、彼女の世界が語られているだけだから。

要するに彼女の経験したことがベースに書かれているから、
それと同じものを経験していない僕にとっては、
全て未知のものであり、わかりにくい文章になっているのであった。

もちろん彼女の文章は巧いし、読んでいて面白い。
そして的を得たことを書いているし、論理的にも正しい。

ただ、多分これは僕が男で、彼女が女なのだからだろうが、
感じる世界や見てきた世界が違いすぎるために、
僕は彼女の言葉を理解するためのベースを持ち得ておらず、
結果として苦手な文章になったのだと思う。

多分この辺は、色々なことを経験して行くにつれて、
良い文章だと思うようになっていくのだと思う。
[PR]
by pyababy | 2009-07-14 10:56 |