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罪と罰ドストエフスキーではなく、光市母子殺害事件についてのもの。 光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんと、評論家の宮崎哲也、藤井誠二の両名の鼎談をまとめたものが本書である。光市の事件に関しては様々なメディアから注目される傍ら、様々なメディアが伝える事実がどれも理解に苦しむものであり、よくわからなかったという記憶がある。意味の分からない主張をする弁護団に、彼らを批判する橋本弁護士(現知事)に、いつのまにか死刑廃止論にすり替えられていったことなど、事件とは本来関係ない部分が注目された事件だと感じていた。 その事件の中心にいたのが、本村さんと少年Fであった。僕の記憶に残っている本村さんは、いつも気丈に振るまい、根も葉もない批判に対しても丁寧に答え、自己の意志に従って生きようとする強い姿が印象的な人であった。「殺してやりたい」という発言も印象的であったが、それ以上に、自分の事件と真摯に向き合い、マスコミなどに対しても誠実に対応していこうとする姿が印象的であった。 「刑事裁判において被害者は忘れられた存在なのか」 本村さんが素朴に問いかける言葉が心に残っている。僕が学んできた刑事手続においては、被害者は訴訟の当事者ではなく、あくまで第三者に過ぎないというものが基本である。当事者はあくまで、弁護士・被告人・検察官の三者である。そう教わってきた。そして、僕はそれが法律のあるべき姿だと思っていた。刑事裁判はあくまでも被告の罪と罰を決める場所であって、被害者の応報感情を満たす場所ではないと、本気で考えていた。もっといえば、被告人の権利を今以上に認めるべきで、被害者については考えることすら放棄していた。被害者参加制度すら、証拠裁判主義を基調とする刑事手続を乱すものとして反対の立場をとっている人間だった。あくまで真実の追究と適正手続が刑事手続の中心であって、被害者は第三者に過ぎないと考えていた。刑事裁判において被害者は忘れられた存在なのではなく、あえて「当事者から外された」存在であると僕は考えていた。簡単に言えば、復讐の連鎖を断ち切るため、被害者はあくまで第三者という立場をとることが大切だと考えていたのである。 でもそれが、よく分からなくなった。 被害者が参加できない(被害者参加制度によってではなく、当事者として)裁判というものが、どこか腑に落ちない。今の刑事手続のシステムは、それはそれで正しいのだとは思っている。国家の維持という立場から見た時、今以上のシステムは僕には考えられない。被害者には堪えることが求められるが、復讐の連鎖を断ち切った上で被告人にとって公正な裁判を行うことが可能であるが故に、「被害者の感情」を置き去りにするならばベストだと思うからだ。だけれども、これを被害者の立場から見た時はベストとは言い難くなる。被害者は原則的には証人としてしか裁判に出席することができず、また、被害者参加制度によって意見陳述の機会が与えられるとはいえども、それはあくまで証拠としては扱われず、あくまで公の場で自己の意思表明ができるという制度に過ぎず、被害者の応報感情を満足させるほどの制度とは言い難い。 刑事裁判の本来的な意味が、真実の追究と適正手続にあるのだとするのならば、現在のシステムを変える必要は無いとは思う。だけれども、被害者の権利が主張されるようになり、裁判員制度が始まることによって市民の意見が刑事手続に取り込まれるようになり、刑事裁判のあり方が変わってきたと感じられる現在においては、他のシステムの方がベターなのかもしれないとも今は考えている。 どれが良いのか悪いのかは、僕には解らない。だけれども、何かを変えないといけない時期にきているのかも知れないと、本書を読みながら感じた。 「僕は生き様で示して、彼は死に様で示さなければいけない。」 そのように答える本村さんの言葉はもう一つ別のことを僕に考えさせた。 それは、死刑によって死ぬことが大切なのか、 死刑によって変わることが大切なのかという問いであった。 死をもって償うことの意味はどこにあるのだろうか。死ぬこと自体が大切なのだろうか。それとも、自分の罪を認め、受け入れ、死んでいくという過程に意味があるのだろうか。死刑の根本的な部分が、僕にはよくわからなくなった。 本村さんは終始、「人の命について迷いながらも考えることが大切だ」といったことを述べていた。その彼の意思は、僕には伝わったのかなと思う。彼が闘ったのは、少年Fではなくて、何も考えずにただ盲目的に権力に従うだけの国民だったのかなと、本書を読み終わって感じた。
by pyababy
| 2009-12-17 14:50
| 本
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