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適当という生き方。
僕は基本として物事を適当にこなします。
待ち合わせなんかも適当な時間に適当な場所で。 やるべきことも適当までに適当な量。 それを普段からも口に出しているので、多分他の人から見たときは、ほんとに適当そのものの人間に見えると思います。 ですが僕の中の適当というものは、真面目よりも位が高いものなんです。 例えば待ち合わせをするときに、「適当な場所で落合おう」的な約束をしたとします。 この場合だとお互いが自分がどこの場所がいいのかということをある程度考えた上で、客観的に考えて妥当である場所で落合おうという意味で適当という言葉を使います。 いうなれば、相手に対して1から10までいわなくても最低限の情報で問題なく話が伝わっているということを期待して適当という言葉を使うのです。 しかし僕の思う適当が伝わらないことが多いです。 その原因として、適当という言葉の二つの意味ということがあげられます。 僕は「目的や要件などに当てはまること」といった意味でも適当という言葉を使うのですが、彼らは「いいかげんなさま」といった意味のみを使うのです。 先の例でいえば、僕が言う「適当な場所=今までの話の流れから考えてそこしかないであろう場所」のことであるのですが、彼らの場合は「適当な場所=場所決めないの?」といった感じで受け取られるのです。 つまり僕が求めることと、彼らが受け取ることに矛盾が生じ、彼らは言葉を額面通りに受け取るために適当の良さに気付いていないのです。 適当に生きるということはは、ある程度の目的を持ち、その中から最善の手というものを常に選び出すといった生き方だと僕は思うのです。 しかしこの最善の手を選ぶということは、逆に考えるとそれを選ぶ必要があるとき以外は、いいかげんにそれこそテキトーに生きるということに繋がってしまいます。 つまりある決断の時に最善の手を選ぶことによって、それを選ばなかったときに比べてやるべき行動が格段に少なくなり、結果としてテキトーに生きていてもものごとの進め方が最善であるために問題なく生きられるのです。 他者の目にはこの部分がうつるため、僕が適当な人間であるとの評価を受けるのです。
by pyababy
| 2007-07-18 01:22
| 日常
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