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親子関係の崩壊
あまり調べてないので半分適当なので注意。
というか自分の中での整理。 過去の日本や世界にあったものは、観念的な人間関係。 すなわち親は子より偉くて、兄は弟より偉い、妻は夫より下といった、実質を伴わない観念的な関係を規定して、それに従うことが当然とされていた。それゆえにその仕組みに不満を表立てて出すこともなく、人間関係としては成立していた。 この違いというものを生み出す前の段階では、ある意味で平等だった。 しかしながら、親子、兄弟関係などは、自然とその上下関係ができていた。 その理由はわからないが、自然的関係というものが観念的に作られたのだろう。 これと違って夫婦の上下関係、君臣の関係などは、社会的に作られた関係であるといえる。元々は人間同士の上下関係のない環節的関係が基本となっていた日本において、君主が人々を支配していく上で、作ることとなった関係だからである。 この二つの関係は生成過程は違えども、 結果として今の日本人にも当たり前として観念的に受け入れられている。 この当たり前の部分の崩壊が起ってきたのが近代であるといえると思う。 いうなれば、観念的な関係を疑問視し、実質的能力差によって関係を作り出そうとした。 これは社会的に作られた関係から始まった変化だと思う。 夫と妻との実質的能力差がないことを理由としたフェミニズムや、労働者の権利の主張などがその一例としてあげられると思う。個人の能力を測るに当たり経済的価値というものが出てきたことがこれらの原因であると思う。 資本主義が浸透し、観念的な偉さではなく生産性の高さ、収入の多さというものが個人の地位を確立し、それによる新しい関係が生まれてきたとも言い換えられる。また、君主制の崩壊や人権の主張などの社会の変化もあげられるだろう。 要するに社会的関係においては、支配者側のある種の支配のための嘘がばれて、彼らとの実質差が存在ないという事実により崩壊していったのである。 社会的関係の崩壊は進み、今現在においてはほぼ完了しかけていると思う。 それに起因してなのか、自然的関係の崩壊が始まっているように僕は感じている。 自然関係であった親子関係、すなわち親が子よりも偉いという仮定は、実質的に見て子が親よりも優越している場合に潰れていくということは理解はできる。子が親を養うようになる所謂世代交代の場合である。 しかし今現在においてはそれ以外の部分での崩壊が確実にある。 その原因として、上位者の絶対性が揺らいだことがあげられると思う。 所謂頼りない親、子にビビる親。 そしてそれを報道する社会。 報道を真に受ける子供。 多分もっと多くのことが影響し合って、自然関係が崩されていっているように思える。 親が絶対であった過去においては、観念的親子関係の主張に対しても順わざるをえなかったように思う。ただ、今現在においては親の絶対性が薄れ、観念的関係に順う必要性が少なくなり、結果としてその関係が崩壊してきているように思う。 情報化社会となり、親>子という単純な図式が何故だか崩れた。 むしろ人権の主張により親=子という式を作ろうとしたことも影響しているのかな。 そしてその状況においての親の萎縮により、結果として子が優越した。 ゆえに親に順わないということも、ある意味での当然のこととなった。 多分これは教師と生徒にも当てはまるのかな。 で、今の世界の流れとしては、観念的関係の崩壊が進んでいたとしても、それを認めたくない上位者と、それを利用しようとする下位者が争いあっている状況であろう。 親子関係でいうなれば、親は観念的親子関係にすがり、実質の力はなくとも親>子を主張しよう年、子は観念的親子関係が崩れたと思い、親>子を否定しようとし、親=子もしくは子>親であるという主張をしようとしている。 多分これらのことが、少年犯罪の増加というものに影響しているはずである。 絶対的にダメなことを絶対的に主張できなくなったこと。 すなわち観念的に上位者であったものから下位者への強制により保たれていた部分の秩序が、実質的に崩壊してしまったのであろう。 今はまだ崩壊しつつあるだけなのかな。 所々にほころびがでてきている過渡期といった感じか。 多分だけど、この崩壊は止めることができない。 社会的関係がそうであったようにね。 一度知ってしまった事実(それが誤っていたとしても)はなくすことができないしね。 じゃあどうするかといえば、新しい関係を作るしかない。 ただ、観念的関係は崩壊しつつあるからこれは使えない。 使おうとするなら相当のカリスマ性というものが必要だと僕は思う。 ゆえに実質的関係の中からの差というものを作り出さなければならない。 なので上位者にはそれに見合った実質を作ることが求められる。 それが作れない場合は、上位者でいることを諦めるしかないはず。 ただここで問題なのが親子関係。 本来はこれの崩壊ってのがおかしいからね。まあ話し合うなりなんなりして、ガキの頃から親>子ということを実質的に理解させるしかないと思う。少なくとも理由も何も示さずに、親>子を主張できる時代は終わったから。 でだ。 この先にあるのって完全な実質的平等のはずなんだよな。 ある意味で過去と同じの、個人の能力というものが全てを決定するという実質においては平等な社会が広がっていくはず。そして過去の歴史と同様に、実質差からくる新しい上下関係が作られていくという歴史を繰り返すはず。 で、僕はこの観念的関係をどうにかして維持すべきだと思っている。 多分だけれども、実質的平等社会より観念的関係による不平等だが認めざるを得ない社会の方が安定すると思うから。 だけどその方法がわからない。 そして自然的関係が崩壊しつつある直接的なきっかけがわからない。 この二つが今の疑問で、特に後者を理解できれば前者もわかるだろうから、 多少調べたりしないといけねーなってところでEND t-k思想的なところって現代思想が確立されてないからなかなか調べられんのがなあ。
by pyababy
| 2007-11-06 23:23
| 日常
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