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わかりやすいわかりにくさ。

「短い文章の方が実は難しい」ということを最近よく思う。

例えば、僕が「白い色が好き」と言ったとする。
でもこれはもしかしたら、「子供の頃に見た白いウサギが虫を食べるのを見てそれをカッコイイと思ったから白は好きなんだけど、同じ白色の白クマは自分の好きな鮭を食べてると知って嫌いだから、白い熊より普通の茶色い熊の方が好きなんだけど、まぁ色としては白が好きかなあ、茶色い色よりは。」の略かもしれない。

これはすごい極端な例なんだけど、参考書とかを読んでるとすごくそれを実感する。
あとはマスコミの報道におけるフィルタリングに際しても、同じようなことを思う。

短い文章の方がパット見はすごくわかりやすい。
一行でものごとの概要は理解できることも多い。

でもそれが本質かといえば必ずしもそうではないことが多い。
一行で表せないことだから、議論になっているわけで。

だけどこれとは逆に、文章を短くする美しさというものがある。
俳句であったり、文章が到達する最終形態はこれだと思う。

この場合、できるだけ多くのことを短い言葉に込めていく。
結果として生まれる文は、一つ一つの言葉の密度が高く、それを解釈したときには、元の文章からは比べようがないくらい多くの言葉で表すことになる。

短い文章に本質を込めている、と言い表せるかもしれない。

短いからこそ本質は別のところにあるというべきなんだけど、短い言葉の中にこそ本質が隠されているかもしれないという、矛盾が生まれる。

それゆえ、何が書いてあるのかという解釈は読み手である自分にしかできないことだけに、短い文章を読むことはとても難しいと、僕は思ったりする。

追記  巡回してる某Blogと内容かぶttt・・。書く前にまわっときゃよかたw
by pyababy | 2007-03-11 03:10 | 日常

模倣

創造力のなさというものをつくづく感じる。

僕には、無から有を生み出す力はなかったみたいだ。

今までの人生を思い返してみても、結局何かの模倣から入っていたことが多い。
完全なオリジナルというものは、思いつく限りでは存在しない。

だからといって模倣が得意だったかといえばそうでもない。
完全に他人をまねる行為は、僕にはできなかった。

性格的にできないこともあるし、技術的、行動的に苦手なことでもあったからだ。

逆に僕ができたことといえば、1のものから10を作ること。

多分これは、見る人が見れば他人の模倣ということはわかるだろう。
だけど、多分一般人からはオリジナルに見える程度ではあると思う。

自分だけのものというものを、何か手に入れたい。
by pyababy | 2007-03-10 13:52 | 日常

韻が踏めない

なんとなくRapがうまくなりたくて、ケツメとか聞きながら口ずさんでます。

普通に歌うだけなら結構なんでも歌えたりするんですが、Rapはどうも苦手です。
口があまり回らないのと、強弱を付けた歌い方というのがうまくできません。

それなりに売れている歌手のRapは、歌詞の作り方が綺麗だと思います。
言葉そのものは綺麗なものとは言い難いんですが、言葉のリズムであったり、韻の踏み方がなんともいえません。

英語のRapの歌の方が、韻なんかは綺麗だなと思うことが多いです。
まあ母音の数が違うから、いろいろな組み合わせができるってのもあるんでしょうけど。

韻を踏む文章でも、何となく書こうかと思ったけど
浮かばないし無理臭いのでEND。

がしかしあきらめが悪いから少し考える。

ああダメこの才能ないわ。
by pyababy | 2007-03-09 03:17 | 日常

だから?

人のBlogやmixiを読んでいて、「だからどうしたw」と思うことが多い。

人の行動や、食べたもの、遊んだ相手なんかを見ても、何も興味がわかない。
その人の人格を多少なりとも知ることのできる、バトンなどの方がまだマシかもしれない。

結局僕が興味をもつものなんて、自分に関係していることしかないのかもしれない。

多分僕が書くこのBlogも、興味のない人間からしたら、ただの文字の羅列に過ぎない。
そして読もうとも思わず、「だからどうしたw」と思うだろう。

他人が書く文章が面白くないわけではないし、面白いものをわざわざ拒もうとは思わない。
良いと思ったものは受け入れようと心がけているし、善悪問わず受け入れることができるようになってきているとは思う。

だけれども、興味がわかない文章があることは否めない。
しかしそれらを分類することはなかなかできない。

面白くなくても興味のある内容のものもあるし、日々の生活を綴っているだけでも面白く、興味が沸くものもある。

だけど一つだけ言えることがある。
全ての人が興味を持つ文章を書くことなどは不可能だということ。

今までの世の中で一番のベストセラーと呼ばれている聖書が、それに一番近いものだとは思う。だけれども、全ての人に受け入れられたわけではなく、アンチ聖書の人も多い。

ある意味、一部の人にだけ受け入れてもらうことを前提として書かれた文章は、正解なのかもしれない。

その点からすれば、僕が興味の沸かない彼らの日常の文章であったとしても、一部の人からは意味のある文章であるのかもしれない。

ほんとにだからどうした?だ。
by pyababy | 2007-03-08 14:36 | 日常

上辺だけの物語

yoshiの文章は微妙だということばを、NET上では結構みかける。

僕は何冊か彼の本を読んだ。
当時中学生か高校生だったときのクラスで彼の本が一時期流行り、誰かに貸してもらって読んだと記憶している。

その当時の僕としては、本というものを読んでなかったわけではないけど、今みたいに文字の羅列の中の美しさなんかは気にすることもなく、物語全体を楽しむ読書をしていた。

そのためか、彼の文章自体も特に違和感も感じずに読めていたと思う。
感想としても、ありきたりな話だけどリアリティが少しあって、思春期まっただなかなアホな少年には十分刺激があったように思える。

多分今の僕なら、あの文章はもう読もうとしないと思う。
読書の目的が、物語自体を楽しむよりは、文章の作りや美しさを見いだすことになってしまっているから、あの手の文は今は受け付けない。

しかし文章の質はどうであれ、多少なりとも共感なり感動に近いものはあった。
とはいっても、人間というのは馬鹿なもので、少しかわいそうな話があって、動物が出てきて、それが死んだりすると何故だか悲しくなって、感動してしまう。

そんなベタな話であっても、何かしら感じるところもある。
あまり認めたくはない事実になるけど、援助交際であったりドラッグであったりというものは、所謂若者という間では日常になりつつある。ちょっと危ないところに出入りすれば、手に入ったりするのも事実である。

そしてSEX、エイズ、妊娠、堕胎、なんてことも過去の人に比べるとかなり早い段階で経験するようになっていると感じてはいる。

まあいうなれば、ちょっと身近な話ってとこか。

そんな意味での多感な時期の人にとっては、彼の書く素直な文章は受け入れやすい。
文学作品のように文字の裏にある言葉も読む必要が無く、難しい言い回しもないため、すごく簡単に物語というものを読めてしまうことも受け入れられた要因の一つだと思う。


本というものに文章力を求めるか、ただ感動することだけを求めるかということを考える。

正直なところ、僕としてはわざわざ難しい話を読むより、簡単な話でぽんぽん感動できたりする方がいいんじゃないかと思ったりする。

今の世の中にある大半のクズみたいな本より、泣ける2chであったりその他もろもろの方が普通に感動できたりする。

でもそれだけでいいのかといえば、僕は違うと思う。
何故あんな堅苦しい文章が評価されていて、何百年も前のものですら未だに読まれているのかということを考えれば、すぐに答えは見つかる。

ああだめだ今の僕の力だとそれを言葉で言い表せないふぁっく。


活字なんて時代遅れのものだし、そんなものより映像なり何なりを見た方が明らかに手っ取り早い。だけどそれでも活字が生き残っているのは、読む人それぞれによってまったく違う感じ方があったり、文章からでしか想像できない世界があるからだと思う。

そんな世界を作ることができるのはやっぱり文章力のある人が書いた文章だけだと思う。

しかし、上辺だけでも感動や楽しさのある文章の方が好まれるため、文章力よりは話題性や共感を呼びやすい内容で感動させるような作りの文章が人気になるのが現実。
by pyababy | 2007-03-07 02:20 | 日常

遠回りの近道

この年になってようやく、基礎が大切ということを理解することができた。

何かをするときに、僕は基礎の部分がすごく苦手だった。
そのかわり、応用であったり、ハイレベルといわれるものは、難なくこなすことができていた。
そのためか、基礎を疎かにする性格というものが、自然と作られたのかもしれない。

競泳をやっていた頃は、基礎の大切さが理解できずに終わってしまった。
所謂基礎練習とよばれる筋トレであったり柔軟であったり、といった身体作りに関するものはそれなりにこなしていたが、泳ぎにおける基礎練習というものがすごく嫌いで、結果としてスタミナであったり、最後のスパートの力などが鍛えられていなかった。

それに気付くことができたのは、競泳を引退して半年ほど経ったときだった。
過去の自分に慢心し、過去の自分という基礎で生きていけると思っていたけどそれは間違いで、現在の自分の基礎というものを見失ってしまっていたのが、結局の自分の敗因であったと今となってはハッキリとわかる。

今は法律関係の勉強をしているが、この分野は自分にとっては未知のものだった。
それゆえにとても簡単なところから、それこそ基礎の基礎の部分から勉強を始めることにした。
今はまだ基礎の部分を続けてはいるが、基礎のさらに基礎になる部分が理解できていたからこそ、先の部分の理解が早いのが手にとってわかる。

それは知識が増えたことも影響しているからかもしれないが、それも含めて基礎力のついた結果だとは思える。

物事に近道はなくて、一番遠回りかもしれない道が結果として近道なんだと最近は思う。
by pyababy | 2007-03-06 10:37 | 日常

時給800円

僕は今現在はアルバイトをしていない。
故に収入は0なのであるが、実家暮らしの学生のため特に問題もない。

元々あまりお金を使わない性格というのも影響している。
過去にアルバイトで稼いだお金はほとんど貯金として存在している。そのため、あと1年以上は無駄な出費を抑えればアルバイトをする必要はなかったりする。

他にも僕がアルバイトを今していない理由は結構沢山ある。

第一に、めんどくさいから。
手元にお金があるのに、無理に働く必要を感じない。

実家であるという甘え。
生活費というものが親のすね囓りなため、無理に働かなくても良い。僕の親は僕が見ても仕事熱心な方なためか、普通に生活する分には親の稼ぎだけで生きていける。そこのところは親にすごく感謝したい。

バイトの仕事内容に対する無意味さ。
小学生でもできるような内容が多く、それが社会経験になるとは僕には思えなかった。
過去に何度か長期短期含めてアルバイトはしていたが、仕事内容はほとんどが単純なことで、基本として退屈だった。そのためか、社会経験には一応なるのかもしれないが、あの程度のことならわざわざ時間を割いて経験する必要も感じなかった。

そして何より、時間を自分のために使いたい。
今は正直なところ、勉強するのが楽しい。春休みということもあり、遊ぶ時間も適当までにはとっているが、それでも毎日ある程度纏まった時間机に向かっている。多分この机に向かう時間が、過去の僕ならアルバイトのために割かれる時間なのかもしれない。

そんな中で、時間というものの有限さを最近になって初めて感じている。
僕の目指しているところまでたどり着くのに、今の僕の実力等を考慮して、良い方向に考えていったとしても最低あと2年はかかる。むしろその2年が終わって、ようやくまともに戦える地点にあがることができる程度かもしれない。

そう考えると、あまり無駄な時間は割けない。
遊ぶ時間を削ったりすればいいんだけど、僕にはそれができない。そこまで節制する必要はあるかもしれないが、僕は自分をそこまで虐めたいとも思っていない。

結局削れる時間とすれば、アルバイトの時間という結論に至った。

考え方が間違っているかもしれないが、今という時間は買えないが、足りないお金は借りることができる。そしてそれを返す当ては、将来の僕ならあると信じたい。

幸いなことに、僕が誠意を込めて頼めば、ある程度の金銭を貸してくれるような人が僕の周りには存在している。彼らに甘えるわけではないが、買えないものの代わりに借りる行為は、僕は悪いものとは思えない。

例えば、僕が今普通にアルバイトをすれば時給は800円程度だろう。
僕が今生きている中での時給は0円かもしれない。
でもこれが10年後には1万円になっているかもしれない。

これは甘えかもしれないが、目先の800円のために、今の自分を捨てたくない。
その800円を捨てることで、将来というものを買ってみたい。
by pyababy | 2007-03-05 02:30 | 日常

出会いを探して。

僕は友人や知人から、彼女がいるように思われることが多い。
でも実際は、いない期間の方が明らかに長い。
その理由もわかってる。
本気で彼女を求めていないから。


某TV番組で、ピーターが彼女(彼氏)の出来ないといっている人は、ほとんどの場合「本気で相手を探してない」ということを言っていた。

本気で探してる人は、見るところも違ってくるらしい。
例えば、何気なくしている見逃してしまう行為も、相手を探しているところからくる注意力の増加によって発見することができ、相手との接点なんかも見つけやすくなったりする。

求めているからこそ、求めるものをみつけやすくなるみたいだ。
逆に、特に求めていない僕なんかは、相手のことも特別に気にすることがないため、結局そんな点を見逃してしまって、相手自体もみつからないという悪循環に陥るらしい。

そんな話を聞いたときに、聖書の某箇所を思い出した。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 マタイによる福音書 第7章 7-8」

僕はこの言葉を初めて聞いたときは、世界には優しい人が多いんだなあっていうアホ丸出しのことを思っていた。今の日本じゃそんな優しいやつとかいねーよカスとかね。

今ならなんとなくわかるっちゃわかる。
とりあえずやってみろ。そうしたら正しいかどうかはわからなくても何かは得られるから。
そんな感じの意味合いだろう。

ピーターの話でもあったけど、何かを求めているからこそ見える視点ってのはあると思う。
多分その何かを求めている状態が、本来の人間の姿であるように思える。

それが相方であったり、食べ物であったりするかもしれないけど、何かが足りないという状況、何かがほしいという欲望、それ自体が必要なんじゃないかとも思う。

しかし、欲があることは、あまり良いことではないというのが日本の風習ではある。
だけれども、欲がないことは新しい視点をみつけにくいということになる。
そのはずなんだけど、欲がありすぎると大切なものを見落としがちになる。
そのせいか、宗教などでは無欲を求められ、本質を求める思想が多い。

どちらにしても、何かを求めるときには対価というものがある。
その求めるものが、対価と釣り合うのかどうかというバランス感覚を育てていきたい。

何かを求めるだけ、何かを捨てるだけなら、楽に人生過ごせるんだけどなw
by pyababy | 2007-03-04 02:43 | 日常

エロゲの偏見をなくしたい。

エロゲ、ネトゲに対する偏見は、これだけネットジャンキーになった今でも抜けない。

両方とも良い点悪い点は理解しているつもりだけど、何故僕がそんな偏見を持ったままなのかといえば、実際にそれをやっている人達が一般人に比べてオタクであったり引きこもりがちであったりするという事実を身を挺して知ってしまっているからだろう。

どちらかといえば、「エロゲ、ネトゲ」そのものに対する偏見じゃなくて、「エロゲーマー、ネットゲーマー」に対する偏見であるともいえる。

だから、普通の友人がエロゲをやっていたと言っても、僕自身はエロゲ自体に対する偏見はないから、そのことだけでは友人に対しては特に悪い印象も受けない。

ただ、エロゲーマーであるというその友人の本質の部分は多少気にかかる。
ゆえに結局のところ、その人に対して何かしらの普通とは違う印象を受ける。

少し視点をかえてみる。

「エロゲ、ネトゲ」をやっている側の人は、「偏見を持つのはやめてほしい」なんてことをよく言っているように僕は感じる。

彼らは、エロゲなどは通常ではないイレギュラーなものであるが、それを行っている自分自身は普通の人間であるから、それをしている自分に対しては通常の評価をしてほしいという主張をしているわけである。

いうなれば、偏見を受けるであろう事実は認識しつつも、自分だけは特別なものであり、偏見を持たれるべきではないという主張なのである。

これほど矛盾する主張が生まれるのは、協調性を求められ、他人と違うことを行うことは認められないという社会、そして自らは回りと同じ人であるということを強調して、他人から特別視されたくないという心理、何よりも自分だけは違うという自分中心の考え方という人間独自のクズ思想が原因だと思われる。

少なくとも、こんなことを言っているうちは、彼らに対する偏見は抜けない。
こんなクズ思想をもっているやつがエロゲーマーという、新たな偏見が生まれるだけだ。

逆に開き直って、周りの人にも認めてもらえるようになれば、自然とそんな偏見はなくなるだろう。自分を認めさせることで周りの偏見をなくしていった歴史の流れからすると、それは当然行うことであって、それができないようであれば偏見を背負って生きるしかない。
by pyababy | 2007-03-03 14:16 | 日常

Flavor of love

lifeじゃなくてloveだと勝手に思ってました。
歌詞の内容とかもloveっぽいし、発音も伸ばしてると近い音に聞こえてたし!

久しぶりに宇多田の曲で鳥肌が立ちそうになった曲でした。
元々宇多田自体は好きだったんだけど、結婚したくらいからの曲はどうも好きになれなくて、もう宇多田もダメなのかなーと思ってた矢先のこの曲だけに、自分の中ではかなりの名曲に聞こえています。

今日は午後からほとんどずっとこの曲を繰り返し聴いていたんですが、お風呂に入りながらこの曲を歌おうと思ったときに、メロディーがなんとなくしか出てきませんでした。

回数で言えば、多分4-50回は流れているはずなんですが、「ありがとう~」の部分しか自分の中では思い出せませんでした。

僕は最近、何を記憶するのが苦手なのかということがようやくわかってきました。
このような何気なく聴いていたメロディーなんかは、それ単体では思い出すことができず、何かのきっかけとなる物が思い出すに当たって必要になっています。

また、何気なく見ているもの、例えば漫才のときどっちの人が左側に立っているかとか、ケータイの数字の順番とか、明らかに見る時間は多いはずの物が覚えられてなかったりします。

でもなぜか、ぱっと見ただけの女の子の服や髪型、爪の色なんかはハッキリ記憶していたりします。

この辺の記憶のムラを自分の中で把握できたら、相当すごいことできそう。。
by pyababy | 2007-03-02 02:17 | 日常