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短い夏が終わる。

夏の終わりは毎年少し寂しくなる。
だんだんと陽が短くなって、暖かい時間が減っていく。
風が涼しくなってきたときに、夏が過ぎていくことを体で感じる。

8月31日。
小学生や中学生のときの夏休み最後の日。
この日が来るのがすごく厭で、この日が終わらないでほしかった日。
でもこれが終わると秋と二学期が始まる節目の日だった。

僕の感覚なんだけど、夏っていえる季節は8月だけなんだよね。

暦的には678月が夏なんだろうけど、僕の中で6月は梅雨、7月は初夏、そして8月だけが夏本番といった感覚になってる。

だからかもしれないけど、夏が他の季節より短く感じる。

8月だけが僕の夏で、8月の終わりが夏の終わりの日。

9月になれば僕の中では秋が始まる。
だんだんと涼しくなって、暖かかった日を懐かしむ日が来る。

一ヶ月しかない夏だからこそ、色々な思い出を作りたくなる。
そして振り返ってみて何かあっても、何もなくても、夏の終わりが寂しく思える。
気付いたら終わってしまう夏を儚く感じる。

でも季節ってずっと続かないから良さを感じるんだよね。
ずっと夏なら夏の良さなんてわからない。
桜がずっと咲いてたら春の良さなんてわからなくなる。

いつかは終わってしまうからこそ、その時々を大切にしたくなる。

だけど永遠の終わりがくるわけじゃなくて、一年後にはまた会える。
それゆえに季節との別れは、寂しいけど哀しくはならない。

今日という日で今年の夏は終わる。

今思ったんだけど、明確に終わりを刻める季節って夏だけなんだね。
多分だけど8月31日が夏の終わりってことに異論を唱える人って少ないと思う。

そんな意味では夏って季節は特別なのかな。
そして1年の境ってのも、ある意味8月31日がいいのかも。


考え事ばかりだった今年の夏。
夏が終わって新しい季節に、夏考え抜いた答えを描ければいいな。
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by pyababy | 2007-08-31 00:41 | 日常

バイオリズム

なんとなく前から思っていたのですが、僕が巡回しているBlogを書いている人と、僕のBlogの内容がお互い同時期に読んでいるわけではないと思うのに、何故だか自然と同じような内容になる日があります。

僕は他人のBlogなんかに影響されて何かを書くときもあるけど、だいたいは自分がそのときなんとなく思ったことをダラダラ書いているだけです。

それなのになぜか被る日が出てくるんですよね。

内容も時事的なものが被るってのはわかるんだけど、どうかんがえても同じような精神構造していないと被らないようなものが被るから、バイオリズムじゃないけど、そんな感じの精神構造の近くなる日があるのかなあと。

例えば僕がある場所に遊びに行きたいと思っていたときに、友達も同時にそれを思っていたりってことも多分経験したことある人多いと思います。

そんな感じのものの延長なんかなーと勝手ながら思います。

少なくとも何かしらの共通項があるからこそ、同じような思考になるのかな。
そして何かのきっかけを経て、同じものを書くのかな。

僕が見つけられるBlogの範囲でも何人かそんな存在を見つけることができているので、案外自分と考えや思考が近い人って溢れているのかもしれませんね。
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by pyababy | 2007-08-29 21:58 | 日常

色々なことを経験すること。

家庭教師で中学生の数学なんかを教えていたりするのですが、私学の子ということもあってなかなか難しい内容だったりします。

まあ現在大学生の僕にとってはそんなに大した難しさでもなく、少し考えれば難なく解ける程度なんですが、多分教えてる相手の子にとってはすごく難しいのだと思います。

なぜ僕がその問題を簡単に解けるのかといえば、過去にそれらを解くという経験をしているからに他なりません。

まったく同じ問題ではないにしても、同じような解き方をする問題を過去にやっていたことが、今新しく問題を見て解き方を思い浮かべるのに役立っています。

ゆえに僕はそこまで深く考えなくとも解けるのですが、その経験がない相手にとっては難しい問題になっているのだと思います。

多分これは人生にもいえることなんだと勝手ながら思います。

過去に似たような体験をしているからこそ、現在の行動の選択肢の中から最善に近いものを選べるのだと思います。

だからといってはなんですが、色々なことを経験していることって大切なことなんだなと改めて思ったりしています。

僕は消極的な性格ということもあって、多くのことを経験しているわけではありません。
ですがこれまでなんとなくでもやってこれたのは、少ない経験でもそれをしっかり考えることでそれらの経験を応用できていたからだとも思っています。

たくさん経験して経験値を積むのもいいと思うし、少しの経験を磨き上げることによって成長するのも悪くはないと思う。

でもどちらかだけに偏るのはあまり良いとは思えないから、今からでも少しずつでも積極的に何かを経験していきたいと思う。
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by pyababy | 2007-08-29 00:43 | 日常

寝られないので思うことを少し。

僕は少しのことでは感動も何もできないタイプの人間です。

道にカタツムリがいたくらいだとああカタツムリかと思うだけです。
職質されたとしても、ああめんどくせえって思うだけです。
有名人にあっても、ああ今日運いいなって思うだけです。

僕の中の感覚ではその辺のことは事件でも何でもなくて、ただの日常の一こまに過ぎないために特に何とも思わないのです。

ですが知り合い(特に女の子)にしてみると、有名人を見たという話題だけで一日中話していることができて、職質された愚痴だけで半日話すことができて、カタツムリを見ただけで嬉しそうな顔をして報告したりしています。

多分僕の中の日常の範囲と、彼らの日常の範囲が全然違うんでしょうね。

僕は彼らより日常の範囲を広くとっているので、ちょっとのことでは何も感じないし、逆にいえばよっぽどのことでない限り落ち着いていられます。

彼らは僕が日常と感じる部分を、非日常のイベントであると感じるところがあるために、ちょっとしたことでも騒ぐことができるのでしょうか。

故に僕の中では大したことないことで騒いでいる彼らの話を聞くのがめんどくさくて、結構放置とかしたりするのですが、彼らにとってはそれは非日常の他人に対して語るべき内容であり、それを共有しようとしない僕に苛立ちを感じているのでしょう。

でもまあ彼らの方が人生を楽しめるとは思います。

僕のように日常の範囲を広くとって、それ故にほとんどのことを日常の一こまと感じるよりは、ちょっとしたことでも事件であると捉え、その少しのことに感動を覚えるといった暮らしの方が、多分ですが感情に富んだ生活ができると思います。

僕にとっては大したことのない話でも、彼らにとっては非日常の大切な話である。
この部分を少し考えてあげて、彼らの何とも感じない話も真面目に聞いてあげるべきなのかなと思ったりします。

ちょっとしたことで感動できる彼らが多少羨ましくはあるんですけどね。
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by pyababy | 2007-08-28 05:53 | 日常

人を信じてみること。

生きるためには当たり前に行わないといけない行為なんだけど、
多分生きる中でTOP3くらいに難しい行為だと思います。

僕自身あんまり人を信じてなくて、最悪この人に裏切られてもなんとかなるといった感じの保険付きの行動をすることが大半です。

ある程度は信じたいから表面上は信じるし、多分この人も僕のことを信じてくれているっていうのは感覚としては理解できるんだけど、一番奥底では完全に信じ切れていない自分がいて、多分完全に信じてくれていない相手がいます。

これは僕がその程度の人間関係しか作れていないこと、僕自身が幼すぎることも影響しているんでしょうけど、それだけじゃなくて人間の本質的な問題だと思います。

少し僕の友人の話をします。

彼とは結構付き合いも長く(といっても本格的に仲良くなったのはここ2年くらい)、お互いのことは結構知っています。

何が好きであるか、どんな存在なのか、その程度のことはさすがに付き合いの長さから勝手に理解してはいます。

ある程度理解できているから話していても面白いし、思考が似ていることもあって一緒にいるのは面白いから人間としては結構好きです。

ですが彼にも問題が一つあります。
それは彼が「わからないことをわからないといえない」人間ということです。

知ったかぶりに近いんですが、それとは一線を画しているもう少し上位の知ったかぶりといったような感じです。

ある話題を振ったとすると、彼自身はそこまで詳しく知っていなくても、他の情報や僕が喋った内容などからある程度のことを推測して話すべき内容を見いだし、詳しい内容を話す振りをすることができるのです。

正直いって彼はこの能力に長けすぎていて、一般人じゃまず見抜けません。
僕も彼と一緒にいる時間が長くなって初めて気付きました。
こいつ実は知らないんだって。

まあ僕自身くだらん話をするのが好きなので、それでも気にせずきいてくれて、適当までの相づちを打ってくれて、知ったかぶりでも「知らないよ」と切り捨てられるよりはマシだと思っているので、今は彼のその能力に気付かない振りをして過ごしています。

多分僕自身がこだわりすぎているところもあるんでしょうけど、そのような能力に長けている人って、最後のところで信じられないんですよね。

彼と一緒にいるのは楽しいし、彼自身は好きだ。
だけれども彼と一緒に本気で仕事ができるかといえば確実にNOなんです。

理由は彼を信じられないから。

普段の遊びの会話なんて正直なところウソでもなんでも面白けりゃいいんです。
人を陥れるようなウソとかは嫌いだけど、その場が楽しくて周りの人も傷つかないようならほんとなんでもいいと思っています。

でもそういうところでウソをつく人って、大事なところでもウソをつくんです。
それがもう体と心に染みついちゃっているから。
僕が危険なことを感じたら即逃げる癖がついているようにね。

そんなこんなで彼が信じられなくなって、今は結構疑心暗鬼だったりします。
ああこいつまたしったかかよwwwwwとか内心で思っていたりします。

まあ僕はその場は面白いからまあいいかなとは思うんですが、彼自身気付いているとは思うのですが、その能力が他人にばれたとき酷いことになるんですよね。

全ての人が僕のように結構なんでも流せるタイプじゃないので、それについて言及したりする人も出てくるし、一度ウソがばれると他に付いていたウソまで全てばれるんだよね。

もちろん彼自身頭も良い存在なので、そんなミスはまずしないだろうけどね。
だけど僕が気付いたってことは、僕より頭の良い人間はそれらのことに気付くわけで、彼らにしたら嘲笑の対象になるんだなと思うと、今のうちに言ってあげたほうがいいのかなと思ったりもするのです。

結局僕はかなり仲の良い友達すら信じられなくて、多分今信じられる人間って0ちゃうかなって思ったりします。

なんていうか信じたいんだけど、ちょっとのことで信じられなくなるんだよね。

一回でも疑いたくなるようなことがあれば、その時点でもう完全に信じられなくなる。
その疑いが晴れたらまた信じられるかもしれないけど、完全にその疑いが晴れることなんてまずないしね。

だからいくら信じようとしても、本気で信じるのって不可能に近いんだよね。
相手が完璧な存在ならば完全に信じることができるんだけど、そんなのいるはずもないし、いたとしてもみんなが神と呼んでる存在だけだろうしね。

それゆえに今の僕は人を信じるということを完全に諦めています。
上にも書いたけど、人を信じるためには自分の力だけじゃなくて、相手がどのような存在であるかということも影響するから、多分今の僕には一生無理だと思うから。

でもその代わり最近はこう思うようにしています。

信じることは無理だけど、疑わないことはできるかなって。

疑うって行為は完全に主観的なものだから、他人に影響されないんだよね。
疑わないってのもそれと同じで、たとえ相手がどれだけ疑われるべき行動をしていても、自分だけは疑わないっていう選択をすることができる。

信じると疑わないって同じようなものなんだけど、少し違うんだよね。

僕には完璧に人を信じるっていうのは不可能なんだけど、疑わないってことだけならできると思うんだよね。

それでも結構難しいんだけど、それくらいはしてみたいと最近は思う。
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by pyababy | 2007-08-26 19:11 | 日常

春夏秋冬

このBlogにはLiveの感想を書くつもりはなかったんですが、どうしても伝えたいことがあるのであえて書きます。興味ない人はスルーで。

昨日のエントリでちょっと触れたアリス九號.のLiveに行ってきました。

8月24日は彼らが結成した日で、ちょうど昨日が彼らの3周年の日でした。

そんなこともあって、僕も多少はアリス九號.が好きだったし、一度くらいはLiveをみておきたいと思っていたので行ってみました。

本当に好きな人には悪いとは思うのですが、演奏技術があのレベルの場所でやるには相応しくないこともあって、正直なところLive始まっても前半は微妙でした。(バンドっつーかアイドルのコンサートみたいだったからな。)

かろうじて聞けると僕が思うのはドラムのNaoだけで、他は正直いってギターソロとか聞いてるのがアホらしかったです。(元々メロスピが好きってこともあって、キモギターばっかり聞いてるからなんだけどね。)

まあ僕の目的は、「平成十七年七月七日」と「春夏秋冬」っていう曲だったので、それ以外はまあしょうがねーかと思って聞いていました。

本当に良い曲って、体が勝手に動くんだけど、彼らの音ではそうもいかずに棒立ちっぽい状態が多かったです。

前半はヘドバン曲もなくて、もてあましてたってのもあったけどね。

中盤になって新曲やって、ああこれも微妙だなあと思ってた後くらいから、ようやく僕の好きなヘドバン曲が入ってきました。

頭振ってテンション上がってきてうはおk。
そうなってたところに3周年なんだ、俺らみんなのこと好きだぜ!!的なMCがあって少し興奮して、その後の「ブループラネット」って曲に感動。

その曲自体もこの地球で会えたことが奇跡ryみたいな歌詞の曲だったから、MCと相まって良い感じになってました。

その次の「平成十七年七月七日」でひとまず本編は終わりでした。
七月七日の合唱がしたかったので、満足でした。
気分良かったので普段はやらない手扇子やってました。

で、アンコール。

アンコはファン層が女の子ばっかりってのもあって、男の俺が声出すと明らかに浮くから手拍子だけパチパチしてました。

アンコールの声が途中からハッピーバースデーの歌になってて、そこでファンの暖かさってのに一人地味に感動してました。

2000人くらいが誰でも知ってるあのメロディーを合唱だぜ。。

でまあ合唱してる内にメンバーが戻ってきて、アンコに。
そのときにメンバーがファンから受け取った寄せ書きの入った幕をもってきてくれてて、メンバーも優しいなあと。

ちっせー規模のライブならそんなのもアリだと思ってたけど、あの規模の場所で、しかもホールであんなことやってくれたのは嬉しかったです。

そのあとのMCで、多分普段のライブでは語らないような結構重い話をいっぱいしてて、ああやって売れてるバンドのメンバーでも、俺らみたいなちっせー人間と同じような悩み抱えてるんだなってことを思うとなんだか親近感が沸きました。

そんなこんなでラストの「春夏秋冬」。

僕自身がこの曲でアリスナインを好きになったのもあって思い入れがあるっていうのと、彼らのライブでは常にラストを飾るっていう曲だったので、ずっと生でききてーなあって思っていた曲でした。

それ以外にも今日は特別なことがあったりしました。ファンの有志で集まってくれた人が、紙で作る真っ白な花を配ってくれていて、「春夏秋冬」のときにみんなで手に付けてみようといった三周年記念の企画をやってくれていました。

まあ俺男だし、配られたときはこいつら頑張ってるなあ、、、まあこんなのもたまにはわるくねーかwwwくらいの勢いだったんだけど、いざライブとなってアンコのこととかMCでの色々な話を聞いたあとだと、企画をしてくれた人にすごく感謝したくなりました。

実際二階席からみたその景色はすごく綺麗で(何を付けてたかはわかんなかったかもしらないけど)、自分の中でも忘れられないライブになりそうでした。

なんていうか配られたときは少数だけなのかなって思ってたけど、実際みてみたらほぼ全員つけてるんだよね。

俺とか企画もなんもしてないし、ぶっちゃけそんな熱心なファンでもないけど、それ見た瞬間なんだかすげー嬉しかった。

企画とかしてくれたのは多分すごい少人数だと思うし、あんな2000人分くらいのものを用意するのはすごく大変だったと思う。

でもそのおかげで、僕の中ではすごくいいライブになったし、多分メンバーの人も、会場に来ていたほとんどの人にとってもいい思い出になったと思う。

こことかみてるわけないけど、ありがとう。
みる可能性があるかもしれないって思ったから、あえてオープンなBlogに書いた。

あんな暖かいファンに囲まれて、なかなかに幸せだと思いました。

書いてたら長くなった。

まあなんていうんだろう。
一人一人にできることってちっせーことばっかなんだけど、でもそれでも何かやるのと、何もやらないのじゃまったく違うし、そのちっさいことでも積み重なっていけば、今日みたいに色んな人にとって忘れられないものにできると思う。

僕自身もそんな意味では、何かをまずはやってみるってことの大切さってことや、そこから得られる結果の素晴らしさなんてことも学ばさせてもらったと思う。

あの場にいれたことがすごく嬉しいし、感謝したい。

ありがとう。
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by pyababy | 2007-08-25 02:05 | 日常

音の話を徒然と

好きになる音の種類がどんどん変わっていく。

小学生くらいのときは普通のJ-POPが好きだった。
というか演奏技術とかなんもわからなくて、流れている良い曲が好きな曲になった。

中学でDAIの曲が好きになってちょっとずつ幅が広がっていった。
厨2病っぽく洋楽囓ったのもこの辺かな。

そこからJanneやSIAMが好きになって、気付いたらV系ラブに。
V系というか実はメタルが好きだってことに気付いて、メロスピ好きの今に至る。

昔は狂っているようにしか聞こえなかったシャウトやメタルのドラムの音なんかが、今はすごく好きだし、その良さもわかるようにはなった。

でもまあこれらの曲って、ずっと聴いていけるかとは思えないんだよね。
多分この年齢だから普通に聴けるし、頭とか振りたくなるんだろうなとふと思う。

V系も今は好きだけど、そろそろ飽きが来てるのも事実。
というより今はいいV系バンドがほとんどない。

しいていえばJanneとDirくらいだけど、両方とも今はV系とはいえないしな。
ガゼットも好きだけど、今の彼らの方向はあんまり好きじゃない。

他のV系はといわれると、シド kagrra アリスナイン この辺は今は人気だし結構悪くはないと思うけど、音より他の部分での売り出しが多くてイライラする。

日本のバンドって結局音だけで勝負しないんだよね。
売れる音と作りたい音が明らかに一致してない。

今応援しているバンドも、新曲は正直アウト。
キャッチャーな曲になりきれてない中途半端ロックとかやるならやらない方がいい。

やるならもうハロプロとかその辺まで突き詰めるべき。

まあクオリティ落とさずに音だけで勝負するのって難しいんだろうけどね。
XやSIAM、Raphael は音の質が下がる前に解散したから、今でも残ってる曲はどれも名曲だと俺は思うんだよね。

もちろん続けててもいい曲はかけていたとは思うけどね。

僕が思ういい曲が売れる曲とは一線を画しているからなんともいえないんだけど、売れるための曲を作って好きな音をやめるのは厭だなあ。

最近そんなのばっかりでほんとにだめだわ。

インディーズのときは好きだったのにメジャーになるとry。

成長した結果として僕の嫌いな音になったのかもしれないけどね。
じゃあ聴くなって感じなんだけど、一度は応援しててライブとかいったりするとね。。

親心じゃないけど多少見守ってしまうわけです。
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by pyababy | 2007-08-24 00:03 | 日常

好きだからではなく逃げるために

僕の好きなアーティストが音楽をやっていた本当の理由は、「好きだったからではなくて厭な現実から逃げるため」だったと言っていました。

音楽をやっている間だけは厭なことを考えなくてすむからやっていたんだと。

何かに熱中することで他の何かを考えなくて済むようになる。
僕も考え事をしたくないときは、あえて運動をしてみたり、他の人と遊びに行ったり、そのことを直接考えなくて済むような時間を作ったりします。

だからといってそのことから逃げ切れるわけではないのですが、何かをしている一瞬だけはそのことを忘れることができて、少し楽になるのです。

もちろんそれは本当に得られる楽ではなくて、逃げていた時間が終われば元に戻ってしまう
状態なので、最終的な解決は得られないわけなんですが。

それゆえに逃げることに意味はないように感じるんですが、精神的には少しは楽になるし、時間を稼げるぶん前とは違った考え方も見えてきたりするので、そうやって逃げている行為というものは完全に無駄ではないと思ったりはします。

正直なところ、好きと逃げって純粋な区別が付けられないんですよね。

今中心になっている勉強も、過去を考えてみればそのときに逃げる対象がそれしかなかったから選んだってのもあるし、やっている今は好きだからやっているし、必要だからやっているってのもある。

こうやってパソコンに向かっている時間も、ある意味では現実から逃げている時間ではあるんだけど、僕自身パソコンで遊ぶのが好きってのはある。

飯食ってる時間も同じ。

全ての行動は、別の視点から見ると他の行動からの逃げの時間なのかもしれないんだけど、実際はただ逃げてるだけじゃないんだろうなあ。

全ての行動が逃げだとするならば、僕らは何から逃げたいんだろうなあ。
それを考えると答えは一つしかなくて、生きることから逃げたいだけなんだよね。
もしくは死ぬことからか。

ここを逃げるために頑張っているのかと考えるか、好きだから頑張っていると考えるのでは雲泥の差があるから、逃げだと思っても好きだからって割り切ろうかな。
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by pyababy | 2007-08-22 23:34 | 日常

好きだからではなく逃げるために

僕の好きなアーティストが音楽をやっていた本当の理由は、「好きだったからではなくて厭な現実から逃げるため」だったと言っていました。

音楽をやっている間だけは厭なことを考えなくてすむからやっていたんだと。

何かに熱中することで他の何かを考えなくて済むようになる。
僕も考え事をしたくないときは、あえて運動をしてみたり、他の人と遊びに行ったり、そのことを直接考えなくて済むような時間を作ったりします。

だからといってそのことから逃げ切れるわけではないのですが、何かをしている一瞬だけはそのことを忘れることができて、少し楽になるのです。

もちろんそれは本当に得られる楽ではなくて、逃げていた時間が終われば元に戻ってしまう状態なので、最終的な解決は得られないわけなんですが。

それゆえに逃げることに意味はないように感じるんですが、精神的には少しは楽になるし、時間を稼げるぶん前とは違った考え方も見えてきたりするので、そうやって逃げている行為というものは完全に無駄ではないと思ったりはします。

正直なところ、好きと逃げって純粋な区別が付けられないんですよね。

今中心になっている勉強も、過去を考えてみればそのときに逃げる対象がそれしかなかったから選んだってのもあるし、やっている今は好きだからやっているし、必要だからやっているってのもある。

こうやってパソコンに向かっている時間も、ある意味では現実から逃げている時間ではあるんだけど、僕自身パソコンで遊ぶのが好きってのはある。

飯食ってる時間も同じ。

全ての行動は、別の視点から見ると他の行動からの逃げの時間なのかもしれないんだけど、実際はただ逃げてるだけじゃないんだろうなあ。

全ての行動が逃げだとするならば、僕らは何から逃げたいんだろうなあ。
それを考えると答えは一つしかなくて、生きることから逃げたいだけなんだよね。
もしくは死ぬことからか。

ここを逃げるために頑張っているのかと考えるか、好きだから頑張っていると考えるのでは雲泥の差があるから、逃げだと思っても好きだからって割り切ろうかな。
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by pyababy | 2007-08-22 23:34 | 日常

ファイブエム

ずっと「くんじょう」だと思ってた「君繋ファイブエム」というアジカンのアルバムは、実は「きみつなぎファイブエム」だということを先日知りました。

アジカン結構聴いてる割に未だに読み間違えてたとかえへへみたいな。

でまあついでにファイブエムってなんやねんって思ってたのもちょっと調べてみたら、アジカンのボーカルであるごっちゃんが、リアリティを感じることのできる距離が「5m」だからそれをそのまま読んで「ファイブエム」ってことにしたらしいです。

ずっとこれも英語かなんかだと思ってただけに、目から鱗でした。

そんな距離ってことを考えちゃうあたりアーティストだなって思ったりするのですが、僕がリアリティを感じることのできる距離ってもっと近いんですよね。

だいたい手が届く範囲だから半径1mくらい。

というより自分が触れているもの以外は本当に存在するのか怪しく思えてしまう。

目に見えているだけで実は妄想かもしれないし、僕の目がおかしいのかもしれない。
そんなしょうもない疑問を取り払うには、やっぱり触るしかない。

だから僕の中では、手の届く範囲のみがリアルなんですよね。

そんなすごく狭い範囲がリアルなんですが、じゃあその外の世界はなんやねんと。

リアルじゃないけどバーチャルとは違う。
存在はするだろうけど実在する確信が持てない距離。

まあ軽くパクって「-1m」「マイナスエム」とでもしましょうか。

このマイナスエムの範囲にいるものの方が、当たり前だけど多いわけです。
でもこれが実在しないとするならば僕の生活は成り立たないわけで、マイナスエムの世界が存在することを前提として行動していきます。

この範囲をさらに広げ、見えることのできない距離についても考えてみます。

自分の目では見ることができない距離、すなわち不可視のものの存在を自分のみで証明することは不可能です。

だけれどもこれの存在は、他者によって証明されていきます。
他者を信じないことには、僕の行動範囲は可視の距離以上にはなれないのです。

だから僕の場合には究極にはこの手の届く範囲のみが自信を持って過ごせる空間であって、それ以上の場所は不安な場所になるのです。

その安心できない場所を、少しでも安心できる場所と思えるようにするために、他人がいて、色々な人が書いた文献や映像や写真なんかがあって、その人たちの存在を確認する手段としてのインターネットや電話なんてものがあるのです。

ゆえに僕の中でのそれらのものは、自分の生きる世界を証明してくれる大切なものなので、なかなか手放せなくて、依存していってしまうのです。
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by pyababy | 2007-08-22 00:11 | 日常