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萌えるwwwwwwwwww

ダチに萌えたwwwwwwwwwww

可愛いwwwwwwwwwwww
可愛いwwwwwwwwwwww

まあ今日は人生ではじめて、ラジオの公開生放送とやらに行ってきました。
目的はアリスナインだったから、さすがに周り女の子ばっか。

一緒に行った女の子も引くくらい、周りの女子高生とかが若くてきゃぴきゃぴしてて、若さを感じてしまった。そんなことはどうでもよくて、場所が何故だか運を使ったらしく神ってたので、ヒロトと目が合いまくりでどうしよううはおkwwwwwwwww

と 大事なのはその帰り。

いやなんつの
ちょっと手が触れたくらいで
かお真っ赤とか
もう
俺の
萌えポイント
つきまくりむりwwwwwwwww

うぶなこカワユスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


あれだな。
話ちょっと変わるんだけど、一度回り始めるといい感じで回る。
その一個目が何かあれば、すごくスムーズに人生が回ってる。

何かのきっかけってのは凄く大事だなって思うんだけど、それが自分で起こせるモノじゃないから、そのきっかけを見つけたら逃さず食らいついていきたい。

そのための手段と力だけは、常に蓄えていたい。
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by pyababy | 2007-11-29 01:59 | 日常

何を感じ、何を伝えるか。

11月は何故だか半端ない量の本を読んでいたりします。
そんな僕は、最近本を読むときに自分が「読む」部分が変わってきました。

小学生くらいのときはひたすら活字を追っていて、その中で出てきた場面を想像して楽しむことが中心でした。基本的に物語ばかり読んでいたので、シーンを想像してwktkくらいしかすることもなかったんですけどね。

そこからだんだん場面の美しさよりも文章の美しさを求めるようになりました。芥川であったり、過去の名作といわれるものや、江國香織や京極夏彦といった新しいながらも言葉の使い方がうまい本を求めていました。多分これは自分でも少し文章を書くようになって、参考にしたかったモノもあったし、京極の桜の表現が凄く素敵で魅せられたのも大きかったかもしれません。

大学に入ってからは、学術書なども多く読むようになりました。小説などと違い学術書は文章の処理能力が問われていました。著者が何を言っていて、どのような論理構成でなんという主張をしているのか。そんなことばかり考えて読んでいました。

でもそれが最近は変わってきました。
「その本を書いた人が何を感じながら、何を伝えたいと思って書いているのか。」
これを自分の中で考えるのではなく、感じることが中心になりました。

言葉で説明しにくいのですが、ひたすら本を読んでいくうちに、自分が筆者になりきるというか、ある意味筆者と同化させることでその文章を書いていたときの筆者の気持ちがなんとなくだけどわかるようになってきたといった感じでしょうか。

文章の巧さや物語の構成の巧さ、または学術的な主張の明確さなどももちろん大切なのですが、それ以上に本を通して伝わってくる感情、気迫、その他の部分を「読む」ことができるようになったというのが近いかなあ。

そのおかげでというか、自分の中での名作と駄作の区別がはっきりつくようになりました。
何も伝わってこない本は、正直いって駄作。一ページごとに著者の気持ちがビンビンはいってくるものは、内容がどうであれ名作だと。

読書の仕方ってのは様々だと思うんだけど、今の僕はそんな読み方が好きです。
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by pyababy | 2007-11-28 00:53 | 日常

好きなものを好きでいてくれること

自分が好きなものを他の人が好きでいてくれると、何故だか嬉しくなる。
音楽であったり本であったり、それを作ったのは自分じゃなくて全然他の人なんだけど、好きでいてくれることが自分のことであるかのように嬉しく思える。

それと同時に、自分が好きなものを他人に薦めたくなる。
そしてそれを好きになってくれるとすごく嬉しい。

この感覚が最近すごく鋭くなった。
まあSIAM SHADEのLiveにいってからなんだけどね。自分が凄く楽しめた、そして好きな場所だったLiveのことを、他の人もBlogは2chなんかに「良かった」と書いていたことが何故だかすごく嬉しかった。その人のことなんて見たこともないし赤の他人なんだけど、同じ場所にいれて同じ時間を過ごせたこと、そして好きなものを共有できていたことが自分とその人の関係を特別なものであると感じさせた。

多分僕らは本来的な性質として自己の好きなものを誰かと共有したいんだろう。
そのことが宗教を広めたり、世界中で様々な熱狂を産んだんだと思う。

好きなものを知って欲しいという思いは、自分を知って欲しいという欲求ともリンクしてるんだろうとも思う。自分が本当に好きなものを相手が好きでいてくれることで、自分と相手の共通点が生まれ、その共通点を理解してくれる相手が自分をも理解してくれていると錯覚していく。でもこれは錯覚ではなくて、そのモノに関して言えばリアルだと思う。自分の完全な理解は相手から得られないとしても、一部分の理解だけは得られるのだろうから。

相手から理解されることは自分が相手を理解することと表裏の関係にある。だから僕らは互いに似たようなモノを好きである人を求め、自らの手の内に繋ぎとめようとする。

過去においては自らの手に届く範囲の人間しかいなかったが、今は世界中の人と理解し合える。だから人との繋がりが過去より薄く感じても、理解されているという気持ちは薄れていかないんだと思う。

人との繋がりを求めることは、僕の中では理解される相手を求めるためだと思っている。僕がこうやって文章を書いているのも、多分だけど僕の思考や経験した出来事を共有できる相手が少しでもいいから欲しいのだと思う。自己満足といつも書いてはいるが、結局のところ僕も誰かしら理解してくれる相手が欲しいのだと思う。だからコメントを貰ったり、直接メッセージなんかを貰うと、文章を通じてでもその気持ちなどを共有できたと感じ、相手に少しの部分でも理解されたのだと思い、嬉しくなる。

理解という感情は、好きという感情と繋がっていると思う。
ただ好きという感情は、一方的理解というもののように思える。

これを理解に変えるために、好きであることを誰かに伝えたり、好きなモノを誰かに薦めたりするんだと思う。だから好きであるモノを自分が伝えもせずに好きでいてくれる人がいることがすごく嬉しいんだと思う。
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by pyababy | 2007-11-26 23:03 | 日常

人を見極める。

少しだけでたやる気がなくなって、ここ二日は完全気晴らしDayに。
久しぶりに女の子と遊んだり久しぶりに漫画読んだり。

モチベーションを保つのはすごく難しくて、僕のモチベーションはすぐになくなっていく。多分これが、一人だけで何かをやることの限界なんだろう。僕がいくら意識を高く持っても、それを続けさせるには他人の力がいる。認めたくないけど、今の僕の力だとこの限界がなかなか超えられていない。

ある先生に言われた言葉が僕の頭から離れない。

「君の話は何か宙に浮いているようにみえる。面白い面白くないで言えば興味はそそられる。君は何かの制限を自分に設けているように見える。もっと伸びる要素があるのにそれを自らふさいでしまっているように感じる。一つの壁を乗り越えたらもっと伸びることができるはず。その手段として一つでいいから何かに本気で打ち込んだ方がいい。そしてその打ち込むものを見つけるために私のところに着たんでしょう。」

少しの時間話をしただけで、自分の人間性がここまで見抜かれたのは初めてで、それだけに自分の中で衝撃だった。自分では気付きながらも気付かない振りをしていた部分。他人に対しては出来る限り隠してきた部分。それを一発で見抜かれたことが初めてで、僕の中でその先生の言葉、その先生自身がすごく興味がある。

自分の可能性は自分でも感じている。多分何かしらのことが可能なはず。だけれどもその能力を生かす場所がない。自分で言うのもアレだが、本気でそう思っている。

ただ僕の中でまだその先生に身をゆだねていいのかという答えが出ない。本当にその先生を信用して、信頼していいのかがわからない。

僕が今まで生きてきた中で、本気で人に教えを請おうと思ったのはこれが初めて。
そう思わせることができるだけの人材だから、信用していいのだとは思う。

だけど、1%でも信用できないなら、僕は自分の力が100%発揮できるとは思えない。その人を信用していいのか。その見極めが終わらない。でも多分自分の中で答えは出てる。

すごく下らない悩みだけど、僕の頭から離れない。
考える前に動けばいいといつも思っていても、思考が止まらずに動けない。
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by pyababy | 2007-11-26 00:27 | 日常

深読みをしすぎる癖

必要以上に物事を深く考えてしまう癖が抜けない。
記憶にあるのは小学校のテストのときくらいから。

確か算数の問題で、普通なら難しい最後の方にある問題なのにすごく簡単に解けた。解けてるはずだから答えも合ってて特に問題ないはずなんだけど、僕はそこでこんな簡単な答えが最後の問題のわけがないとか勝手に思って、無駄に考えた。

記憶にあるのは多分それが最初。そのあとも試験とかだと、ついつい簡単な答えが出てくると実は裏があるんちゃうかと思って無駄に考えてた。

今もそう。
凄く簡単なものをみつけると、それは実は間違っているんじゃないかと思ってしまう。

ちょっと話とぶんだけど、
簡単にしようと思ったら難しくなる。
難しくしようと思えば簡単になる。
ってことがある本に書いてあった。

要約したら本来ならば簡単になるはずなんだけど、意味が凝縮されるために事実上は難しいものとなる。そしてその逆も然りで、色々な言葉を繋げて難しくしようとすればするほど、結果として情報が増えて簡単になる。

今の解釈は文章に限定したものなんだけど、それ以外にももちろん当てはまる。

最近思うんだけど、それら全てを総合して考えられる視点が欲しい。
簡単とか難しいじゃなくて、物事自体そのものを理解できる視点ってやつかなあ。

多分そのことを過去の偉い人たちは真理といって追い求めたんだろうなと。

僕はやっと、真理を求めることができるスタートに立てたのかな。

あーなんというか文章書いてても喋っててもギター触ってても文字打ってても、なんかバランス悪いな。リズムが一歩ずれてる。自分の中の歯車がちょこっとずれてるから話がポンポン飛んでるし何書いてるか自分でもわからん。疲れとかそんなんじゃなくて何かが変。

これもしかしたらもう一歩先が見える場所に着いたことから来る歪みなんかな。
あの成長期にちょっと運動能力落ちるアレみたいな感じ。

もうマジダメだなこれ。なのに書き直す気すらおこらん。
このダメっていうラベリングもほんと使わない方がいいな。
俺すげーってラベリングマジだいじ。

色々なことが頭に溢れてくるんだけど、吹き出す量が多すぎて整理がまったくできない。
書いても書いても何かが浮かぶけど、繋がりがない。点がどんどんでてきて、それが線にならないし、面にも体にもならない。

色々な思考が頭を回ってそれが二週目三週目に入ってる。
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by pyababy | 2007-11-24 23:48 | 日常

自分の言葉では無い感覚。

レポート課題を書いていて感じたことは、自由に書いていいと言われているはずの課題なのに、僕が記す言葉に自分がいないということだった。

自分が言葉を綴っているはずなのに、自分が書いた言葉とは思えない感覚がそこにはあった。このBlogに書いている文章は、後から見直しても自分が書いたものとほぼ断言できるような文章なのだが、レポートで書く文章は何故だかそうではない。

レポートだから畏まって書いている可能性は多分高い。見ず知らずのうちに自分の文章を自分以上のものに仕上げようとしているのかもしれない。だけれども、それ以外の部分で読み直してみて不満を感じる。

多分だけど、僕が主張したいことの半分も主張できていないことが大きいのかもしれない。本来ならば書きたいことは、このクズ死ねマジ生きる価値無いって感じのことを書きたいはずなのに、実際に書いてみると、この人なりに生きてるんだからまあ生きたら、くらいの下らない文章になっている。

僕が単純にレポートや論文といった体裁の文章を書き慣れていないと言うこともあるのだろうが、何かしら僕を縛るものがある。多分だけどそれは、他人が確実に見ているという感覚であろう。ここに書いている文章も、一応までには他人が読むことを前提とした文章にはなっている。だけれども、他人の評価を対象とはしていない。誰かに添削され、点数を付けられ、またはその人に評価してもらうために書いてはいない。何度も書いてきたが、あくまでここは自己満足のオナニー場所であり、ある意味で公開オナニーと何ら変わりもない。むしろ公開しているという事実が僕を興奮させ、なんらかの刺激を得ているに過ぎないのだと思う。

だけど、人に評価されることが目的の文章となると話は別だ。正直いって、書くことが苦痛に等しい。誰かに評価されてこそ意味があるのかもしれないが、僕にとってそれは枷でしかなく、無意味な評価に過ぎない。

評価を気にせず書けばいいと思うだろうが、そうもいかない。一度僕の中の感覚を支配した誰かに評価されることが前提という文章の中には、好き勝手気ままに書くという僕が存在する場所がないからだ。

僕のスペースがなくなった僕の文章上に残るのは、ただの言葉の羅列であり、そこからは何も伝わってこない。書いた自分がそう思うのだから、読む相手には何も伝わらないだろう。レポートなどは事実を報告するだけで十分なのかもしれないが、僕にはそれ以外の何かも伝えたい。文字という少ない情報量でも、最大限の情報を伝えたい。

文字の情報量は、日本語1文字につき2バイト。これは僕には変えられない世の中の仕組みになりつつある。僕が書く一文字はあくまで2バイト。1000文字書いてようやく2kb。写真一枚にも満たない文字数で、僕が何を伝えられるのだろうか。僕の気持ちを込められなかった文章では、たかだか120*160pixelの画像よりも伝えられる情報量は少ない。その少ない情報量に込められる気持ちは、僕の努力と実力次第で無限にふくらますことができる。たかだか17文字34バイトの俳句ですら、僕らに無限の想像を与えられるように。

だけれども今僕が書いたレポートにおいては、ただの5kbでしかない。それ以上のことは何も伝えられず、文字が並んでいるだけで誰が書いても同じ5kbにすぎない。

できることならば、5kbの文字数で1MBくらいは伝えたい。それが多分文字ではなく文章を書くという行為で、僕に求められているもの、そして僕が望んでいる行為だから。
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by pyababy | 2007-11-24 00:30 | 日常

アドレスシラネ

何か用事があるみたいで、「僕といつも連んでるやつのアドレスを教えてくれ」とのメールがさっきケータイをみたらきていました。

よく考えたらソフトバンク同士なので、その人のアドレスがわからんわけです。
もうかれこれ2年以上アドレス知らないような。。

とまあアドレスって、僕の場合興味ない人間のアドレスの方が知ってたりします。
飲み会であったり最初のオリエンテーションであったり、その場の雰囲気でアドレス交換をした人間のアドレスだけいっぱいはいっていて、普段連んでる人や、昔仲良かった人間のアドレスって何故かきけてなかったりするんですよね。

多分いつも会うから、もしくはケータイ以外でも連絡取れるから、さらにいえば別に連絡とらなくても縁が切れるわけないと思っているから知らなくても問題ないのかなと勝手ながら思っています。もちろん知っているに越したことはないのでしょうけど、知らなかったからといって困ることもないなと。むしろ、仲良くなりすぎてアドレス聞くタイミングがないというか、ケータイで繋がらない関係になれすぎて、わざわざケータイ使う必要を感じない、そしてケータイを使うタイミングがわからないからアドレスすら聞かないんだろうなと。

逆にその場限りの関係といったらアレですけど、ある意味社交辞令的なアドレスの聞き方をした相手って、どのみちメールも電話もしないというよくあるパターンに陥っています。このアドレスという連絡を取るための手段を聞いた相手に連絡を取らずに、聞いていない相手とは連絡を取ろうとするというのが、僕の中で面白いものになっています。

人との関係は薄くとも切りたくないという心理が働いているのでしょうか。
どーせ連絡とらないやつなんて一生とることないのに、消しもせず残している。むしろアドレス聞く段階で連絡取らないということを自覚しているのにあえて聞く。名刺交換も似たようなものかもしれないけど、あえて名前を伝えあう。これはある意味日本人の独自の文化なのかもしらんなと勝手に思っているんだけど、どうなんですか外国人は。(名刺交換的なものは日本でしかないみたいな話を読んだので。関連づけていいのかわからんがw)

他人と繋がりたいっていう人の一番の弱みにつけ込めた携帯産業は凄いなあと。
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by pyababy | 2007-11-23 07:51 | 日常

嘘を見抜くことで失うもの。

最近人の嘘を見抜く能力が、前に比べて高くなっていることを実感している。

他人と話していてその人が本当のことを言っているのか、誇張した話をしているのか、はたまた嘘で塗り固められた話なのか、そんなことが何故だかわかるようになった。独りよがりのものでなく、何かしらの探りを入れると、嘘と言うことが確実に当てられるくらいに。

多分これは、僕の嘘をつく能力が上がったことに起因しているんだと思う。僕は基本的に嘘はつかないようにしている。もちろんたまに嘘はいうのだけれども、嘘をつくときは絶対にばれない、あるいは嘘であることで自分以外を傷つけない嘘をつくようにしている。

自分の嘘を、ある意味で真実と変わりのない程度の嘘にまで磨き上げたことが、僕の他者の嘘を見抜く能力もあげていったのだと、勝手に納得している。

人の嘘を見抜けることが、僕は良いことだと思っていた。そして嘘をつく人間が、悪であると僕は教わってきた。その観念を崩せぬままに今まで生き、そして嘘=悪ということを他者に教えるまでになってしまった。だけれども、今は嘘は悪ではないと思うようになってきている。そして嘘を見抜けないことが幸せであるとも思っている。

人が嘘をつく部分は、人が隠したい部分ということは誰にも当てはまる。
人に見せびらかしたい部分で嘘をつく人間は存在しない。何かを隠すために嘘をつくのだから、これは当然のことである。嘘がわかるということは、その人間の隠したい部分-多くはその人間の汚い部分-を必然的に見ることになる。

そのことがすごく辛い。
他人の汚い部分を見ることが、自分をも苦しめてしまう。
人は汚くないと信じたい僕の心が、完全に折れてしまう。

無知ほど幸せなことはないと思う。
知を求めてきた僕は、今無知を求めている。
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by pyababy | 2007-11-21 23:04 | 日常

貧乏であることを誇りながら、金持ちであることを望む。

世間一般の思想としては、金持ちであることが「良いこと」のように思われている。
そして現実の社会を生きる上であっても、金がないよりあるに越したことはない。この事実だけはもうどうやっても変えることはできないものになりつつある。というより、金が今の世界の秩序を全て作っていると言っても過言ではない。もちろん金だけじゃないということは理解はしているが、事実として金が全てを回しているということは、誰の目から見ても、どう綺麗事を並べようが変えられない事実だろう。

そのはずなのだが、僕らは何故か金持ちであることを否定したがる傾向がある。
何故か金持ちであることが悪口の対象となる。そして金持ちであることを隠し、他者と同じように貧乏であることをあえて主張する。これはもちろん僕の生きるコミュニティが完璧な金持ちでもなく完全な貧乏でもないから起こることなのかもしれない。だけど、今までの人生において、金持ちであることをあえて主張する人間に出会ったことはまれであった。そしてそれを主張した人間は、ほぼ必ずバッシングにあっていた。

金を持つことが卑しいという思想は日本においては昔から存在したのだろう。
多分支配者側が金を持つことになれ、それにこき使われた歴史などから、金持ち=悪などといった幻想が作られ、それが今に至ってもメディアなどによって作られるイメージによって保たれているのだろう。もちろん妬みという感情もすごく大きいことはいうまでもない。

この金持ち=悪、そして金持ちが妬まれる現状が、あえて金持ちであることを隠し、貧乏がさぞ美徳のように語られる矛盾を生み出しているのだと思う。

今日は所謂「自称貧乏」な先生と話していたのだが、彼はある意味において貧乏であることを誇りに思い、その一方で金持ちの存在を羨ましがり妬んでいる。

僕はそんな彼に対し、あえて自分の家は金があるということを伝えてみた。
現状として他の家と比べると中流上位以上の地位にいることは紛れもない事実であるし、僕にはそれを否定する理由がないからだ。金持ちで何が悪いということではなくて、親なり祖父なりが必死に作り上げてきたからこそある今の金というものを否定したくないからだ。それゆえに僕は今自分がある程度の裕福な家庭にいることを、自分が作り出した財ではないのであるが肯定している。

彼やその周りにいた人間にとって見れば、すごく厭な人間に見えたらしい。
僕は彼らに何を思われようが何も感じないが、自分の親なりが一生懸命作り出してくれたこの現在を否定するほどバカな人間になりたくはない。僕が貧乏ということで彼ら(親など)が喜ぶとは思えない。必死になって彼らが(僕のためではないにしろ)作り出してくれた現実は、素直に受け入れ喜ぶべきだと思う。もちろんその中での感謝は忘れたらいけないと思うし、そんな家庭に生まれたことから出てくる僕の人生における責任というものも当たり前だけど全うするつもりではいる。

金がない方が楽しく生きられるみたいなことをいう人もいるが、僕にしてみれば彼らはただの現実から逃げた負け犬でしかない。勝ち負けで見るのは嫌いだが、現状から上に行くことを放棄し、その理由として金があることの苦労を語る人間をそれ以外にどう評価すればよいのだろうか。(誤解して欲しくないのは僕は貧乏が悪いということをいっているのではなく、向上心がない貧乏を否定しているだけである。一応念のため。)

もちろん世界には、自分の作り出した財を全て捨てて、それであえて金のない生活を望む人も存在する。僕が思うに彼らは貧乏なのかといえば、そうではない。ただ金がないだけで、貧乏とはほど遠い地位に存在する。彼らはどちらかといえば例外で、ある意味人間を超越している僕が目指したい部類の人間である。

思想や革命は貧乏から生まれるという主張もあるが、決してそうではないと僕は思っている。そんなものは、やる気がある人間なら貧乏だろうが金持ちだろうがやるときはやる。ただその人口比率的に考えて、貧乏から出てくる率が高いのは当然だろう。金があっても向上心のある人はいくらでも存在するし、金が無くても向上心のない人間もいくらでも存在する。

結局のところ僕らは金というものを完全に切り離すことができないのだろう。
貧乏がいいといいつつ、金のある生活を羨ましがる。金があったらあったで無い生活も楽なんだろうと主張したりもする。そのどちらにも共通していることは、金に溺れているという事実に他ならない。これはもちろん僕自身も金に溺れているし、多分僕は一生金というものを手放すことができないだろう。それは僕自身の価値観が生まれたときから存在する資本主義、等価交換というものに作られ、僕の中での価値=金という図式が崩されることがないためだ。

僕は、金があるという現実も、金がないという現実も、金が全てという現実も、それら全てを受け入れたい。多分そうすることでしか、金の呪縛からは逃げられないからだ。それだけ金には魅力があり、必要性がある。
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by pyababy | 2007-11-21 00:02 | 日常

Heart of Rock!!!!!

7月の再結成という話以来、ほぼこれを見るためだけに生きてきた俺。
僕がSIAM SHADEを好きになったのは3年前くらいだから新しいファンの部類に入るのかな。好きになるのが遅すぎて、好きになったときにはもう解散していて、ライブなんて見られることはないんだなーって思ってた。あと10年早く生まれたらよかったなーとか、ありえないifを考えた時期もあったりした。それだけに再結成の話は新一さんの追悼ってことであっても素直に嬉しくて、自分が遅くに生まれたから見ることができなかった生Liveを見られるってだけで嬉しかった。

そんなこんなでチケットとって、武道館ってこともあってバスのチケットもとって、何気に初武道館だからそれだけでも興奮してた。

東京ついて、連れと合流して武道館に。

それっぽい人がいて、だんだん実感がわいてくる。武道館の外には列。人がいっぱい。それもいつも行くようなライブのように、同じような服を着た同じような年代の人ばかりじゃなくて、お母さんの年代の人から、俺と同じような年の人、さらにはもっと年下の人間まで。老若男女って言葉がすごく似合ってる場所だった。僕はそれがすごく嬉しくて、色々な人に本当に愛されているバンドなんだってことを改めてその場にいて思った。自分の周りにはSIAM SHADEを好きな人間が全然いなくて、好きっていっている奴ですら1/3しか知らないようなレベル。それだけに本当にSIAM SHADEのためだけに1万人以上も集まるのかってことすら疑ってたから、会場に着いた時点で正直うるうるきてた。

武道館に入って、ステージを見渡す。初めてだから案外近いってことに驚いたりする。だんだんと席が人で埋まっていく中で、本当に今日Liveがあるんだってことをやっと実感した。影アナの声、煽り、その他のことからスタッフもSIAMをほんとに好きだったんだということを肌で感じて、そのことがすごく僕も嬉しかった。

Liveは今まで見てきた他のバンドと比べるのすらアホらしい。
それくらい圧倒的に格好良かった。

ファンもすごく良かったと思う。
2chとかを見ていると、ファンが乗り切れてないみたいなことも書かれてたけど、声とかもすごく揃ってたし、他のライブと比べると相当良かったと思う。でもそれすらよくなかったと言い切れるほど、現役の時のSIAMが良かったんだと思うと、ちょっと悔しい。誰かが書いてた「SIAMはもっとすごいんだってことをみせてあげたかった。」って言葉が、ほんとにもっと早くにSIAMをしっておきたかったって思いを強くする。

そんなこんなでLiveが終わった。
このLiveのために生きてきたっていったらバカみたいだけど、ほんとにこれ見るために色々なことを頑張ってきたから、終わっちゃったのがちょっと哀しい。でもMCであった、「生きてください。」って言葉が、明日からも頑張っていこうっていうそんな力をくれた。

音楽がここまで色々な人に受け入れられるのって、音楽を聴くことで勇気をもらったり、明日も頑張ろうっていう気になれるからだよね。そうやって人の心を動かせるものってすごく大切だと思うし、それができる音楽っていうのは、やっぱりホンモノの音楽だけだと思う。人に愛されて、人を動かして、人に感動を与えられる音楽を作れるSIAM SHADEは、僕の中では本当に最高のバンドです。

セトリ他曲ずつの感想等
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by pyababy | 2007-11-19 22:14 | 日常