日々垂れ流し。
by pyababy


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知識のための本。

毒と薬の世界史―ソクラテス、錬金術、ドーピング (中公新書)

船山 信次 / 中央公論新社



タイトルに惹かれて読んでは見たものの、あまり面白みを感じなかった。知識を付けるという面、雑学を付けるという面では楽しみはあった。でもそれだけで、何も考えることがない。知識の羅列で終わっており、著者の思考がわからない。

思うに、本には二種類ある。知識を付けるための本と、考えるための本。
この本は前者であって、哲学書とかは後者。

僕はどちらかといえば後者が好きで、前者はあまり面白みを感じない。
それは多分、調べたら解ることに時間をかけることに意味を感じないからだろう。

検索すれば知ることのできる時代だからか、知識のための読書は意味をなさなくなってきたのかもしれない。もちろん、一般教養的な知識にも意味があることは認める。知っていることが、横の知識の幅を広げ、知識のつながりが知恵を生むという事実があるから。でもだからといって、辞書的な知識が求められるわけではなくて、1つの基本的な知識をもとに、知識を応用できる力があれば問題ないと思う。それゆえに、最低限の知識は必要だが、それ以上の自分の専門性以外の知識は、それを付けることにさして意味はないと思ってしまう。調べればすぐに知れるから。多分この辺は個人の価値観だと思うし、雑学も話の幅を広げるには大事だとは思う。

そんな意識があってか、どちらかといえば知識のための本であるこの本は、読んでいてすごく退屈で、流し読みに近くなってしまった。著者の名誉のために述べておくが、内容は今までほとんど触れられていなかった内容だと思うし、面白い。生活と薬・毒といった軸のもと色々なエピソードを集めているので、薬や毒の簡単な知識を付けるにはもってこいではある。

読書のスタイルも変えていこうと思わせた本でした。
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by pyababy | 2009-01-31 23:58 |

プロとして生きること。

仕事力―青版

朝日新聞社広告局 / 朝日新聞社



朝日新聞の日曜版の求人欄に、細々と載っているコラムがある。
これはなかなか読み応えがあって、毎週楽しみに見ている。

余談だが、仕事力 おやじのせなか 本紹介のページ 
この3つくらいは、朝日新聞の中でも良いものだと思う。

とまあ上記のコラムをまとめたものがこの本である。
働くことのすばらしさを、実体験をもとに語る彼らの言葉は、働くひとにも、これから働こうとする人間にも働く意欲と、勇気を与える。その理由は語る彼らの言葉が楽しさに溢れているからであり、充実しているからこそいえる言葉だからだろう。基本としては仕事の話なのだが、彼らの話は人生そのものに向かう場合が多い。多分彼らにとって仕事は人生そのものであり、自己実現の道具だからなのだろう。彼らの話を読んでいると、そんな気持ちはなんとなくだがわかる気もする。

まだまだ学生の身分故に、甘っちょろい考えしか僕は持っていない。
仕事の厳しさであったりつまらなさであったり、くだらなさなんかもよくわかっていない。

それと同時に楽しさの部分もわかってない。
どちらかといえば楽しさに目を向けたこの本だが、裏にある厳しさも忘れてはいけないように思える。彼らはあえて語らなかっただけで、苦しい思いがあったからこそ今があるというものが、文章からにじみ出ている。多分、必死になって汗をかいて、必死になって働いたからこそ、笑っているんだろうなと思う。

楽に生きて笑うのもありだと思うし、必死に生きて笑うのもありだと思う。
とりあえず言えることは、楽しんだもの勝ちなんだろうな。仕事も人生も。
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by pyababy | 2009-01-28 21:40 |

魅力の基準。

本を読む人は、僕にとって魅力的な人だと思っていた。
それは僕が尊敬する人や、魅力的だと思う人は、どの人間もある程度の読書をこなしていたから。だから、本さえ読んでいれば魅力的な人間なのかと思っていた。

でも実際はそうじゃないと、深く思った。

先日、とある作家のオフに行ってきた。
その作家が好きな人の集まりなら、魅力的な人が多いかもしれない。
そんな期待をしながらいってみたが、そうでもなかった。

作家の本という共通点があるだけで、魅力的な人が溢れているわけでもなかった。
いうなれば、同じ食べ物が好きな集団となんらかわりない。もちろん、話のきっかけは作りやすいし、好きなものに対しての会話は盛り上がる。でもそれだけで、それ以上の魅力は特に感じなかった。(もちろんこれは人によるけど。)

その理由を考えた。
多分、考える読書をしていないから。
小説を読むことは面白いが、面白いでとまってしまっているから。
いうなれば、ぼーっとテレビを見るのと何ら変わりない。
その行為はその人自体をなんら高めなくて、魅力すら持たさない。

そう考えていくと、何故読書をしていた人間を魅力的だと思っていたかが理解できてくる。要するに、僕が魅力的に思っていたのは、読書をしていたからではなく、読書をきっかけとして何かを考えていたから。読書はきっかけにすぎず、それを読み込もうとする行為、読んで自分で考える行為自体が、何らかの魅力を生み出しているのだろう。

本を読んでいるだけじゃ魅力的とは言えない。
何を読んでいるのかも大事だし、どう読んでいるのかも大事。そこを見落として、読書さえしていれば人間的魅力が向上すると思っていた僕は、馬鹿だった。
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by pyababy | 2009-01-25 02:16 | 日常

本に読まれる。

国家論―日本社会をどう強化するか (NHKブックス)

佐藤 優 / 日本放送出版協会



まさか自分が、本にここまで苦戦するとは思わなかった。
今までの読書はそれだけ甘かったと痛感した本だった。

内容について書いていく。

国家とは何か。自分が生きる世界の当たり前であったとしても、深く考えたこともなく、よくわからないものである「国家」を考えていき、国家と社会の違いを述べることで、社会に生きる僕らが、どのようにして国家と付き合っていくのかを記していく本である。

この本においては、国家とは「○○ではないもの」として、定義していく。その過程で使われるのが、マルクスの資本論や、その他知の巨人達の偉大なテキストである。それらを著者なりに解釈していくことで、著者の求める国家像を固めていく。

まずは、国家と社会は区分されても分離されないというの前提のもと、国家から社会を控除していく。そうすると社会ではなく、国家独自のものが見えてくる。すなわち、社会の論理である資本論でとらえきれない現実の社会の問題点を記すことで、国家と社会の違いを見いだそうとしたのである。結論としては、国家は社会の外から関与していると考えられるために、資本論だけでは現実社会を定めることはできなかった。それゆえに、社会のどこかに国家のつけいる隙があり、そこに国家が入り込んでいると考えることができた。

そこで次に、国家はどのような場合に社会に介入してくるかを考える必要がある。どのような場合に介入してくるのかといえば、貨幣に国家の刻印を与えることで、貨幣の価値を保障するといった形での介入、植民地主義、国内での資本主義の不均等な発展、社会主義かを阻止するために、労働者階級に対して資本の再分配を行わせる場合が考えられる。これらの場合に国家は社会に介入してき、資本主義と国家との関わりが深いが故に、国家と資本は切ることができなくなり、国家と社会を区分はできても分離はできなくなった。

ここまでで、国家から社会のイメージが控除されたことになる。すなわち、国家とは暴力に裏打ちされた存在であり、国家を実態として担う官僚階級が社会から収奪することで存続する構造を持つといったものが残ることになる。

次に、近代国家は基本的に国民国家であることに注目し、この概念から国民部分を取り除くことで、現代国家の流行形態を分析し、さらには、本質的には暴力装置である国家が、なぜ相互扶助的な共同体のように表彰されるかを検討していく必要がある。

国家は本来的には収奪機能をもっているが、国民国家となると収奪機能は互酬的であると擬製される。それは何故かといえば、国民国家における収奪は国民の代表である政治家が国民の意思を代理して決めたものであるからである。すなわち、収奪を隠蔽し、正当化することが可能となるため、後の再分配を互酬的であると擬製することが可能になるのである。

また、現代社会においては、資本と国家は相互依存的な関係であるために、資本主義なしに国家が成立することはないと考えられる。そのため、国家を超越することは事実上不可能であり、国家とどのように付き合うのかが重要になってくる。

そこで、国家との付き合い方を、著者は聖書から導き出す。(僕はここで発狂しました。それまでの論理は、複雑ではあっても理解できるわけです。必死に読めば、なんとなくですがわかるわけです。でも、どうやってもそこからキリスト教に結びつかず、頭の中でわけわからなくなり、とてつもなく苦戦しました。)

キリスト教の立場からすると、国家はあくまで外側の存在であると考えられている。そのため、国家は必要悪と考え、最低限の付き合いにすることが求められる。税金を納めろといわれれば、納める。これは無駄な争いを起こさないためである。しかし、その国家が自らを神格化して、自らを拝めたてろと要求する場合には、抵抗しなければならないと考えられる。

この考え方は、現在の国家に対する考え方にも用いることができる。すなわち、国家は必要ではあるが、本質的には悪である。それゆえに、必要性と悪であることに、どうウェイトを置いていくかが重要になる。そのウェイトの置き方は人それぞれの好みになるが、キリスト教の事例と同様に、もし国家が我々を必要以上に制約するならば、抵抗をしなければいけないといったものだけは残ると考えられる。

また、国家は究極的なものか否かでいえば、究極的なものではない。究極以前のものであると考えられる。しかしそれだから無意味といったものではなく、究極的なものを目指して良き国家を目指していくべきであると考えられる。したがって、国家が必要悪であることを踏まえて、その悪や暴力性をいかにして抑制するかが課題となる。

そこで、いかにして国家を抑制するのかを考える必要がある。著者はそのために、社会を強化する必要があると考えている。すなわち、社会が国家に圧力をかけ、新自由主義によって恩恵を受けているごく一部の人たちを制御する必要があると考えるのである。国家の暴力を背景にし、資本に対して再分配を強いる反面、国家が恣意的な暴力を行おうとした場合は社会が国家に不信任を突きつけるといった具合である。

それを行うためにも、社会を強化する必要がある。どのようにして社会を強化するかといえば、社会の中のネットワークを強化することにより、実際に自立して生きることのできる社会を作ることが求められる。すなわち国家に依存しなくとも自立して生きていける社会になる必要がある。そうするためにも、個人が大きな夢を持ち、夢を実現していく必要がある。

また、この社会と国家の間を媒介しているものが政治家であると言える。現代の政治家は、究極以前のものにしか関心を持たず、究極的なものに思いが至らなくなっているのが問題であると述べられている。すなわち、自己の保身や私腹を肥やすことにばかり目がいき、究極的なものを求めようとしていない。そのような状況を社会の側から変えていくことが我々に求められていることで、そうすることで国家が強化されていく。


ここまでが大まかな流れと、考え方である。
さらに簡単にまとめてみる。
国家は必要悪ゆえに、付き合い方を考えなければならない。そのためには、社会が国家に対する影響力を持つ必要があり、社会を強化する必要がある。そうすることで結果的に社会と国家双方が強化され、日本がより良い国家へと成長していく。

多分いいたいことはそんな感じなのだが、アプローチが独特故に悩ませる。
資本論、キリスト教、その他色々難しい本が出てくる。それだけでなく、一般人にはわからないような概念があたりまえのように登場する。だから、普通に読むのが僕のレベルだと不可能に近い。また、難しい考えを述べるための前提を述べるための考えの起源から述べてくれるという超優しい気遣い故に、余計にわからなくなってしまう。でもまあ、わかった気になるよりは、わからないのを必死にわかろうとする方が良いのかもしれない。

僕にとってはこの本の内容や考え方は面白く、新しい知の発見ではあった。ついでにいえば、久しぶりに頭を使って読書をしたと。必死になって食らいついて、ようやく理解できる。ある意味今の僕にとってはちょうど良いレベルだったのかもしれない。しかしながら、これらの本を当たり前のように速読で理解していく人間がいることも事実であろう。それを考えると自分の凡庸さが嫌になる。が、そういっても始まらないので、色々思考していく中で自分をのばしていくしかないのだろう。国家についての見識を深め、自分の国家観を改めて考えるきっかけとなったと同時に、読書観、さらには自分の成長可能性と自分の立ち位置、その辺までも知らしめてくれた本であったのは事実であろう。発狂しながらも、それなりには理解はした。が、この程度の書評しか書けないのが自分の実力であろう。まだまだ精進しなければならないなほんと。
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by pyababy | 2009-01-24 02:46 |

いつの時代も若者は、時代を反映する。

仕事のくだらなさとの戦い (そもそも双書)

佐藤 和夫 / 大月書店



タイトルに惹かれて手に取った本は、それなりに面白く読めた。

働くことが美徳だと、誰が言ったのだろうか。
当たり前に考えれば、そんなわけがない。

人間は労働をするために生まれてきたのではなくて、遊ぶためであったり、人との生活の中で楽しみを見いだすために生まれてきたはずだ。そして労働は最低限で済むように生きてきたはずで、長時間労働することは美徳ではなかったはずだ。狩猟民族を見る限り、労働時間は狩りにいく一日数時間だけで、残りは宴会や踊りなどで過ごしている。多分これが本来の人間の姿であって、一日10時間労働などは狂気の沙汰である。

しかしいつの時代からか、働くことが美徳とされるようになる。
これは多分、国家と一度上げた生活水準のせい。

国の維持のためには、莫大な資金がいる。
そのためにも一人でも多くの人間を働かせなければならない。だから、働くことが美徳といったことを植え付けた。働くことに、違和感を感じさせないために。

後者は、必要以上の労働を生み出してしまった。
食事にしても、果物を採って食べるだけならすぐだが、調理するということを覚えた。だから、必要以上に時間がかかり、労働時間が多くとられるようになってしまった。でも一度上げた生活水準は下げられないために、生活水準維持のための労働は美徳とされ、多くを求められるようになった。

多分、僕らは自分で自分の首を絞めて、現代に疲れている。
そして現代の若者はそれらのような労働を美徳とは思わなくなり、ニートであったりフリーターという、いわば狩猟民族に近い本来の生活を送るようになった。現代においては批判されつつあるニートも、実際の所は時代を先行している先駆者であろう。少なくとも馬鹿な大人と違って、現代の痛みに敏感に反応しているのだから。時代遅れなのは、働くことを美徳としている大人達なのは間違いない。

著者が述べるように、モノが豊かになれば人間が豊かになるという時代は終わった。それも、その考え方は大きな勘違いであったというものを残して。現実にモノは豊かになったが、必要以上のモノを持った我々は、逆に不自由になった。それゆえに次は、精神的豊かさを目指して人間と人間のつながりを重視することが求められるのだろう。

ちょうど就活の時期でもあったため、自分の仕事観を考える上でもいいきっかけとなった。もちろんこの著者がいうことが全て正しいとも思えない。仕事の中にも楽しみや生き甲斐はあるのだとは思う。だけど、現代の多くの仕事はくだらなくて、大人はかっこ悪くて、この社会に生きたいと思えないというのは事実であると思う。それゆえに、生きたいと思えるような社会を、豊かさを目指していく必要があるのだろう。
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by pyababy | 2009-01-20 01:43 |

キャリアデザインって何。

働くひとのためのキャリア・デザイン (PHP新書)

金井 壽宏 / PHP研究所



某人に影響を受けて読んでみた。

そういえば僕は、キャリアの節目にいる。
これは僕が選びたくてこの位置にいるのではなくて、
時期が来たからこの位置にいるだけであるが。

キャリアという言葉がなんとなくだが嫌いである。
キャリアを発展させるなどといったことも、あまり好きではない。
そして何よりも働きたくない。

でもそんなわけにもいかない。
なんせ、働かないとなかなか生きていけないからだ。
それゆえに、しょうがないから働くことになる。

でもどうせ働くのであれば、楽しく働きたい。
面白い仲間と働きたい。自分が打ち込める仕事をしたい。
やりたくないが、やらなければならないことならば、楽しいものに変えればいい。

逆説的ではあるが、働きたくないという自分から導き出される結論は、
楽しく働きたいというものに落ち着くのである。

ではどうすれば楽しく働けるのか。
これを事前に考えていくことが、キャリアデザインであるといえよう。

そんな意味では、この本に書かれていることは当たり前のことであった。
ある程度どう生きたいかが明確でなければ行動を起こせないし、
それを決めすぎてしまうと柔軟性に欠け、人生の面白みを逃してしまう。
それをなくすためにも、節目節目にはしっかりと自分のキャリアを考えて、
残りの時間には考えた流れの中で漂流するのがいいんじゃないか。
なんてことが書かれている。

小学生と中学生じゃ役割が違うように、新入社員とミドルでは役割が違う。
だからこそ節目節目でキャリアを考えることが大事であるとも。

当たり前すぎて何とも言えないが、それができない人が多いから、
このような本が出版されているのだろう。そのこと自体が何となく哀しい。
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by pyababy | 2009-01-16 01:07 |

色遣いの多さ

真夜中のマーチ (集英社文庫)

奥田 英朗 / 集英社



奥田英朗は何色持ってるんだろうと、読むたびに思う。
どの作品にも同じ色が使われてない。
読むたびに違う色が見える。
この作品も、伊良部シリーズとも、上原一郎とも、エッセイとも全く違う。

少しアヤシイ事業を営むヨコケンと、名前だけなら大企業の御曹司だが実はただのダメ社員のミタゾウ、そして大金持ちの父を持つクロチェ。この三人がクロチェの父親が詐欺をして奪った金を横取りしてしまおうというちょっとぶっ飛んだストーリー。

速いテンポで展開していくこの小説は、少し目を離すとすぐに場面が変わってしまうので、ちょっと読みにくかった。一人一人のキャラは確立されているのだが、いかんせん荒い部分が目立ってしまう。伊坂のサスペンスものになれてしまった自分としては物足りなく感じてしまった。

とはいえストーリー自体は面白いし、テンポも良いのでさくっと読めてしまう。
良い作品だとついあらを探したくなる自分に少し困る。
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by pyababy | 2009-01-14 02:07 |

死の濃度。

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

太宰 治 / 新潮社



太宰の作品自体は結構読んではいるものの、全てを読んでいるわけでもない。
ヴィヨンの妻は名作と呼ばれているが、読んでいなかった。

太宰の晩年の作品を年代順に収めたこの短編集は、後半にいくにつれて死の濃度が高くなっている。徐々に生が薄まっていき、やがては迎えることとなる死を、受け入れていっているようなそんな感じを受けた。

何故生きている間に、これほど死に近い作品が描けるのだろう。
そんなことばかりを考えて読んでいたりした。

しかしよくよく考えてみると、これは太宰の技巧なのかもしれない。
死に近い精神状態だから書けたものではなく、技術の進歩によって死を擬似的に作り出せたのかもしれない。小説は過程ではなく結果でしかあらわれないので、そのどちらであるかは僕にはわからない。しかしながら、どちらであったとしても、彼の作り出した作品自体の面白さには代わりはなく、僕を惹き付ける。

死ばかりを強調して見てしまうため忘れがちになるが、それぞれの小説の主題が明確であることも良さを際だたせている。何を書きたいのかがハッキリしている。小説のための小説ではなく、書きたいことを書いた結果としての小説のようにも感じられた。

また、それらの伝えたいことを、最後の一文に込めているようにも感じられた。
ヴィヨンの妻だと「生きていさえすればいいのよ」
家庭の幸福だと「家庭の幸福は諸悪の本」
桜桃だと「子供よりも親が大事」

これらの言葉を伝えたいがために、そのほかの文章を肉付けしたのかもしれないと。
この辺は僕が勝手に受けた感想だから、正しいのかどうかはわからない。

一つの短編を読んで、色々な考えをもてる。色々な解釈を作れる。
このこと自体が名作の証であり、僕らを飽きさせない要素なのだと思う。
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by pyababy | 2009-01-13 02:10 |

狂気にも似た。

地獄変・偸盗 (新潮文庫)

芥川 龍之介 / 新潮社



そういえば読んでいなかった名作を、読むように心がけています。
よくよく考えれば地獄変を読んだことがないという暴挙を果たしてました。

地獄変、偸盗、藪の中など6作の短編を収録したこの文庫本は、なかなかに楽しませてくれました。芥川の書く狂気が僕には心地よく、独特の世界観に魅入りました。

地獄変の世界は、純粋な人間の汚さを表している気がしました。
屏風絵におけるワンシーンを描くために、牛車を燃やすことを求めた良秀。良秀の娘をその牛車の中に入れ、焼き殺した大殿様。娘が焼け死ぬことよりも、焼け落ちる牛車を目にたたき込んだ良秀。その良秀を見て笑う大殿様。絵ができあがった後に正気に戻り、自死を遂げた良秀。全員が狂気で溢れています。読んでいて気分が悪くなりました、それでも読ませる芥川の文章力には脱帽します。

どの人も、さして悪意はないように感じました。良秀は、ただ単に良い絵が描きたいだけ。大殿様は、良秀がどう動くのかが、単純に気になっただけ。彼らの用いた手段は鬼畜われたとしても、意思の底にあるのは単純な好奇心。しかも、純粋に知りたいという知識欲のみ。ただそれが純粋すぎるが故に、狂気と呼ばれてしまった。この哀しい連鎖が、読んでいる僕にも一抹の寂しさを与えました。

地獄変と偸盗が表題作なのですが、僕としては「藪の中」が一番面白く感じました。

一つの殺人事件を巡っての何名かの証言によって構成されるこの話は、現代の裁判を見ているように感じました。

一つの事件でも、関わった人によってとらえ方が違う。
そして、誰が正しいことを言っているのかなどは、誰もわからない。
そもそも自分が正しいのかすらわからない。

検察と弁護によって、同じ事件に違うストーリーを作り出すこと。
そのどちらが正しいのかも、実は誰もわからないこと。
犯人自身が心神喪失によって犯行自体をわからないこと。

それぞれがこんな感じで対応しているように思えました。

それでも僕らは、何か一つの正しい真実がある気がしてしまいます。
そんなものはないんですけどね、もちろん。

強いていえば、自分が見たものが真実で、それ以外は伝聞且つ虚構。
もっといえば、自分が見たものすら脳が作り出した虚構

この単純な事実を、小説で示せたことに衝撃を覚えました。
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by pyababy | 2009-01-11 00:24 |

犬か何かの物語。

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)

小川 洋子 / 講談社



久しぶりに小川洋子が読みたくなって買ってみたら、過去に読んだことがあった。
でも相変わらず優しいけど寂しい物語で、読んでいて心地よかった。

博士の愛した~でもそうだが、彼女の作品には「泣かせる努力」が存在しない。優しさに包まれる物語の中に、共感してしまう何かがあって、それが僕らに涙を与える。

固有名詞がほとんど登場しないこの物語は、どこの国なのか、どこの場所なのか、誰なのか、何なのかがまったくわからない。ブラフマンはブラフマンであって、彫刻師は彫刻師。それ以上の価値もそれ以下の意味もない。

それゆえに登場人物のイメージがぼんやりとしたものとなり、
余計に独特の世界の味を深めていく。

僕の話はやがて誰かの物語となって、僕という固有名詞が無くとも存在するようになるのかなと思ったら、何となく寂しくなった。
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by pyababy | 2009-01-08 23:40 |